第6章 紫さん、幕を引く

第35話 帝京警察署

 足を止めて、空になった500mlのペットボトルを肩掛けのバッグにしまった。

 緊張からか喉が渇いて仕方がなく、目的の駅に着いてから買った水を10分としないうちに飲み干してしまったのだ。

 一度、深く息を吸う。そして目の前に立つ建物に視線を向けた。

 

 『警視庁 帝京警察署』――玄関口の真上にそう名前の書かれた建物が、私の目にはいやに威圧的に映る。


(――い、行こう)


 1歩1歩を踏みしめるように歩いて、その警察署の自動ドアを抜ける。

 受付口がいくつかあった。生活安全課、交通課、会計課などなど、どこに行けばいいのかわからなかった私は、一番実業務の内容がわからない『総務課』へと向かう。


「どうされました?」


 窓口の前に立つと、すぐにそこにいた女性の職員から声を掛けられた。

 私はひと呼吸を置いて気持ちを落ち着けると、


「じ、じ、自首を……しにきたんです」


 と、そう言った。

 女性の職員が、息を呑む音が聞こえた気がした。




 その5畳ほどのスペースには簡素なデスクとパイプ椅子が2脚、調書を取るためと思われる1人用のスチールデスクが置いてある。

 私は今、警察職員の勤務室内に3部屋ある取調室の中の1室にいた。狭いからこその圧迫感があったが、閉鎖的な感じはしない。ドアは開け放たれていて、むしろ出入りはご自由にといった配慮さえ感じられた。


(こ、こ、こんな風になってるんだ……)


 もっとマジックミラーなどで部屋の外側から監視されるような殺伐とした室内を想像していた私は、その点に少し驚いた。

 これも時代の流れというものなのだろうか。強制的な自白による冤罪などが一時期問題に持ち上がったことは記憶に新しいし、内側に隠されてしまうという性質を廃してこういった部分にも情報の透明化というものが浸透してきたのかもしれない。

 ただしかし、こうやって1人取調室に身を置いていると勤務室内で働く他の警察職員たちからジロジロと見られてしまい、すごく座りが悪い。


「やあやあ~、お待たせしてすみませんねぇ」


 居心地が悪く首をすくめて下を向いていたそんな時、低く、しかし明るい声が掛けられて私は顔を上げる。


「ちょっと別件でバタバタとしてましてねぇ、もしかして、だいぶ待っちゃいましたかぁ?」

「い、いえ……」

「そうですかぁ、それならよかった。なっはっはっは」


 横に大きい身体を豪快に揺すって、そうして笑って頭を掻いたのはもう定年も近いのではないかと思しき初老の男性だった。シャツの袖は肘までまくり上げられており、そこからは太い腕が覗いている。濃い眉がまぶたの上を斜め一文字にピッと伸びていて、私には無縁の自信や頼りがいといったオーラを全身から発しているような刑事だ。


「とりあえず、お名前をうかがっておきましょうかぁ……えーっと……?」

「む、む、紫、木葉です……」

「はいはい、ムラサキさん、ですね……」


 名前を繰り返しながら、その老年の刑事は手帳に私の名前を書く。


「えー、それで今日は……『自首』ですってねぇ。穏やかじゃないですなぁ、ムラサキさん」

「は、はい……」

「それは、どういった件で? いやぁ、昨今、特にこの管轄みたいに人の行き来が多い場所ですとねぇ、1日に発生する事件の数も、そりゃまあ多いものなんですよ」


 刑事はとぼけたように再び笑うが、しかしその目だけは笑っておらず、それが私は無性に恐ろしく感じた。

 唾をゴクリと呑み込んで、私は口を開く。


「……え、えっと、この前の日曜日に……お、置き引きをしました……」

「……置き引き、ですかぁ」

「は、はい」


 刑事は手帳に『置き引き』と書いて、その下にD、T、Pといったアルファベットを走り書く。

 そしてDの横に『日曜日』と記すと、再び私に顔を向けた。


「それじゃ、次にその置き引きをした時間帯と場所を教えてもらってもいいですかねぇ?」

「じ、じ、時間帯は確か昼の12時くらいで……ば、場所は帝京駅小手町側の出口の、ベ、ベンチが置いてある場所です」

「はいはい……12時で、帝京駅小手町出口ですねぇ……」


 Tの横に『12時』、Pの横に『帝京駅小手町出口』とそこまで手帳に書くと、刑事はこちらを向いて笑いかける。


「あそこ、最近きれいになりましたよねぇ? 舗装も建物もぜーんぶ新しくしちゃってて」

「は、はぁ……」

「新しい観光スポットにしようっていう魂胆なんでしょうかなぁ……ベンチは、アレかな? 観光の足休めのためにでも設置されたんですかねぇ?」

「え、えっと……わ、私には、わからないです……」


 事件に関係あるのかないのかわからない、そんな疑問をもらす刑事にそう返す。


「まあ、そりゃそうですわなぁ……じゃあ、話を戻しましてね、置き引きしたものはどんなでしたかぁ?」

「え、えっと……こ、これくらいの大きさの、巾着型のバッグです……」


 私は言いながら手で輪を作って大きさを伝える。


「バッグですかぁ」

「は、はい……」

「色は? 何色でした?」

「あ、赤紫色を、していました……」


 手帳に、『キンチャク型のバッグ、アカムラサキ』と文字がつづられていく。


「えーと、このバッグの持ち主のことは知っていますかぁ?」

「は、はい。あ、赤いコートを着た女性が、忘れていったのを見ました……」

「忘れていった? どこにです?」

「あ、えっと、その、ベンチにです……」

「ベンチ」


 刑事は私の言葉を繰り返すと、それも手帳に書き留めた。


「ムラサキさんと、同じベンチ?」

「い、いえ……わ、私の隣のベンチです……み、3つ並んでいて、駅を向かいにして、私は一番右端のベンチに座っていたんです……。そ、その女性は真ん中のベンチに……」

「じゃあその真ん中のベンチに置き忘れられていたバッグを置き引きした、と」

「は、はい……」

「え~っとですねぇ、ちなみにいないとは思うんですがぁ、その場に居合わせた人――つまりは目撃者みたいな方はいたりします……?」

「い、います……」

「あれぇ? いるんですかぁ? すごいなぁ、普通人がいたら置き引きするのにも怖気づいちゃうもんだと思うんですけど……それってどんな状況だったんですかねぇ、詳しく聞かせてもらえます?」


 私はひと呼吸置いて気持ちに整理をつけると、あの日曜日の出来事をひとつひとつ思い返しながら口を開いた。

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