第31話 熱
その日の夜、私は高熱を出した。
熱だけではない。胃の中を空っぽにするほど吐いて、水を飲んではまた吐いた。
頭がクラクラして、意識がボヤける。
ほのかちゃんが心配そうに、涙目でこちらを見ているのがわかった。
ごめん、ごめんね、本当にごめん。
ほのかちゃんに心配をかけるのが辛くって、実際にそう声に出せたのかわからないけど、私は口を動かした。
そこでしばらく意識が途切れて、気が付いたら目の前にあかりちゃんが居た。パジャマ姿で、濡れタオルで私の額を拭ってくれていた。
ほのかちゃんをあかりちゃんに預けようと、そう訴えようとして身体を動かすけれど、しかしそれは叶わなかった。指1本動かすのも怠かったし、それに「無理しちゃダメですよ」とあかりちゃんにたしなめられてしまったから。
そして3日間、うなされてうなされて、ようやく38度台に熱が戻ったころ。
「――はい、お姉さん。たまご粥ができましたよ」
今の時刻は午前3時。寝てばかりだった私の頭は変に冴えているが、しかしベッドの横に敷かれた布団からはこの真夜中の時間相応にほのかちゃんの穏やかな寝息が聞こえている。
私はようやく身体を起こせるようになって、そしてひどくお腹を空かせていた。
「あ、あ、ありがとう……」
「ゆっくり食べてくださいね。お姉さんは3日間ほとんど何も食べてないんですから、急いで食べると胃がびっくりしちゃいますよ」
そうして手渡された器を、掛け布団を掛けたままの太ももの上に載せる。まだベッドから抜け出すほどの体力はなく、不作法だったけれど、そのまま食べることにした。
「……お、美味しい……」
「そうですか、よかったです。しょっぱくはないですか?」
「う、うん。ちょっとだけ」
「この3日間汗もいっぱいかいていたので、濃い味付けの方がいいかなと思って。ちょっとお塩とお醤油を多めにしてみたんです」
「そ、そうなんだ……ありがとう、美味しいよ……」
それからモクモクと、私はスプーンを口に運んだ。じんわりとお腹の中心から温かさが身体全体に広がっていくようで、とても心地よかった。
しかしそれと同時に胸も痛んで、お粥を掻き込む手が止まる。そしてボロボロと大きな玉の涙が次から次へと溢れ出した。
(――こ、こんなにも心地よい温かさを……わ、私には感じる権利なんてないのに……)
あの人は、私の置き引きのせいで重体に陥ったあの赤いコートの女性は、無事だろうか。
……無事? いや、無事なわけない。この期に及んでいったい私は何に希望を見いだそうとしているのだ?
その女性が一命を取り留めていたとして、私はそれで胸をなで下ろしていつもの日常に戻るのか?
いや、戻れるのか?
戻れるはずなんて、ない。
(だ、だって、こんなにも、苦しい……)
私は罪人なのだ。今まさに罪の重さを、この背にまざまざと感じている。
窃盗など、この半年は法を犯して暮らす毎日だったが、それとは無関係の苦しさが身を襲っている。
今までもお財布を、その中のお金を盗まれた人にかかる迷惑を考えたことはあった。しかしそれは私が日々を生きていくために仕方のないことだと完全に割り切れていた。だって私はそれが取り返しのつかない不幸に繋がるなんてこれっぽっちも考えていなかったのだから。
あの日、ベンチで白いコートを羽織ったおばあさんに忠告されたのに、私は今の自分の状況に甘えたまま社会に反する生き方を選び取ってしまった。
そして、とうとう人の死に関わるかもしれない事態を引き起こしてしまったのだ。
「お姉さん……」
あかりちゃんが私の横へと腰かけて、背中を優しくさすってくれる。
この背中にどれだけの罪を背負っているのかを知らずに。
(わ、私には……優しくしてもらえる権利だって、ないのに……)
むしろ、糾弾されるべき人間なのだ。
それを強く自覚するからこそ、あかりちゃんの
「……っく、ぅう……っ!! ひっく……う、うぅぅぅ……っ!!」
腕に顔を埋めて、私は嗚咽を殺しながら泣く。
どうしようもない涙に濡れる顔を誰にも見られたくはなかった。
「お姉さん、お姉さん……」
優しく、あかりちゃんは私の背中で手を動かし続けた。
しかし私を信頼してくれるがゆえのその行動に、罪の意識はさらに大きく私を包み込んだ。
だって私はこの瞬間にもあかりちゃんを裏切り続けているのだから。
私は誰かのせいで泣いているのではなく、私が自ら背負った罪の十字架に押しつぶされて悲鳴を上げているのだから。
なんとも情けなく、惨めであり、自分勝手な理由。
慰めなんてしてもらえる立場じゃない――。
「お姉さん」
ぽすっと、丸みを帯びた柔らかな感触が頬へと当たる。
突然の出来事だった。
「よしよし」
頭の上をゆっくりと温かな感触が流れていく。
「落ち着きましたか、お姉さん……?」
何が起こっているのかを理解するのに数秒かかった。
頬に当たる柔らかさを、そして何度も頭の上を通る心地よさを味わううちにようやく状況を把握する。
私は、撫でられているのだ。あかりちゃんの胸に抱かれて、頭を、よしよしと。
「あ、あ、あかり、ちゃん……?」
「――小さい頃、お母さんがまだ生きてた頃、泣いた時は私もよくこうしてもらってました」
「…………」
「安心、しますよね。こうやって抱っこされると、自分がすごく『確か』なものになる気がするんです。抱き合って伝わるお互いの温かさから、ちゃんと自分はここに居て、そして自分の味方になってくれる人がここに居るんだって」
確かに、安心する。
あかりちゃんの腕の中に包まれて、あかりちゃんの匂いがした。
その心音がトクン、トクンとすぐ近くに聞こえて、そして温かかった。
でも、それでも――。
「わ、わ、私の味方になんか……なれない、よ……」
優しく私を包み込むあかりちゃんの腕の内側で、私は泣いて涸れた声を出す。
「う、ううん、違う……違う……ならないで……私なんかの味方に、ならないで……っ」
「……お姉さん」
「わ、わ、私、ひどい奴なの……ひどい、ひどくって、ど、どうしようもないくらい、救いようがなくて……そ、それで、それでね……」
「……はい」
「それで……」
この先を言えば、拒絶される。
そうしたら、こうして感じる温もりも、全てお終いなのだ。
「……っ」
いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!
あかりちゃんの服の端を、掴む。
離したくなかった。
私の、友達。
初めての友達。
今さら拒絶されるなんて、私には堪えられない。
「お姉さん、無理して言わなくたって、いいんですよ」
「……」
「私はいつだって、お姉さんの味方でいますからね」
優しさを身に浴びる度に罪の十字架はどんどんとその重さを増して、そして私を
私はきっと、それが与える痛みに耐え切ることができないだろう。
だから、私はあかりちゃんの胸の中で頷いて、そして背中に手を回す。
この優しさがあったことを決して忘れないように。
少し力を込めて、赤ちゃんみたいに胸に顔を埋めて、あかりちゃんのこの柔らかさがいつまでも記憶に残るように。
私は、決めた。
「ありがとう、あかりちゃん――」
――そして、さようなら。
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