第30話 報い

「ふわぁぁぁあぁ~っ……あむあむ……おふぁよう……」


 月曜日の朝。私がキッチンに立って朝ごはんの準備をしていると、ほのかちゃんが大きな欠伸をしながら敷布団からのそのそと起き上がってくる。


「お、おはよう、ほのかちゃん……」

「? うん……」


 ほのかちゃんは敷布団を手早く折りたたんで部屋の隅に寄せると、壁に立てかけてあったちゃぶ台を部屋の真ん中に置く。私が朝ごはんの準備をしてほのかちゃんが朝ごはんを置く場所の準備をする、それはもう毎朝の日課になっていてお互いになんのやり取りもなく自然と行われる光景だ。

 しかし、いつもなら自分の準備が終わるとちゃぶ台の前で朝ごはんを待つだけのほのかちゃんが、ヒョコっとキッチンに立つ私の顔を覗き込んできた。


「……ねぇ? このは、体のチョーシわるい……?」

「……え、え?」

「なんか、いつもより声に元気がないよ……?」


 ほのかちゃんが私に向ける純粋な心配の眼差しに、ギクリとする。調子が悪いのは確かだったからだ。

 とはいってもその原因は寝不足だ。昨日はいろんなことを考え、後悔していたせいで全くと言っていいほどに眠ることができなかった。


「やっぱり、昨日なにかあったの?」

「う、ううん。その、昨日はちょっと考え事をしちゃって……そ、それでよく眠れなかっただけ」

「……そうなんだ」

「う、うん。あ、ありがとうね、心配、してくれて」


 ほのかちゃんは未だ納得はしかねるといったような表情だったけれど、しかし「ふーん」と反応すると部屋の中央へと戻っていった。

 私もその後ろへと続くようにして、バターロールパンとベーコンエッグの載ったお皿を持ってちゃぶ台へと向かう。


「いただきまーす!」

「い、いただきます」


 2人で食卓に手を合わせて、用意した朝食を食べる。

 ほのかちゃんと暮らし始めて3か月、私の料理の腕はベーコンエッグを焦がさなくなる程度には上達していた。

 そんな自分の進歩もまた過去の自分には見込めないものであったのに、今の自分は自然とそれをこなしてしまっている。

 

『ねぇ、あなたはもう、あの時のあなたとは別人なんだっていうことは、あなた自身が1番よく感じていることでしょう?』


 朝食を食べるかたわら、昨日の白いコートを羽織ったおばあさんの声が脳裏によみがえる。

 そう、私はずいぶんと変わってしまった。

 この部屋に独り引きこもっていた過去の自分は遥か遠い場所にいた。もはやそれが本当に自分自身であったのかさえが不確かなほどに。

 そして私は変化のあった先の今のこの自分に、少し満足しているのだと思う。

 だからこそ、私は昨日あの場から逃げるように走り去ってしまったのだ。

 軽いパニックになっていたから、ということは確かにあった。

 しかしそれ以上に、自殺の覚悟の先に見つけた今のこの小さな幸せが、あのおばあさんの言葉でまた変えられてしまうような気がしてしまって、そう考えるといてもたってもいられなかった。

 そしてそのあとの記憶は、私を未だに苛み続けている。


(あ、あ、あのバッグは、今、どうなっているかな……)


 私はあの何でも知っているかのようなおばあさんの元から逃げ出したあと、息も絶え絶えにしながら人通りの少ない木々の生い茂る遊歩道まで走ったのだった。そして、そこでようやく自分が巾着バッグを持ったままそこまで来たことを悟り、恐怖した。

 私は置き引きをしたのは初めてだったのだ。普段は相手にお金を盗まれたと認知されないように、気づかれそうにない額だけ抜き取って、他には手をつけないという形で盗みを続けてきた。

 だから事件が発覚するリスクは少ないだろうと安心できていたが、今回はそうじゃない。

 まるまるバッグごと盗んでしまっている。

 それだと確実に届け出が出されてしまうだろう。


(ど、ど、どうすれば……!)


 そうして私はその遊歩道の片隅に、財布の中身にも一切手をつけないまま、バッグを捨て置いたのだ。

 混乱が極まった末の、何の得にもならない選択だ。最悪の選択をしたと、多少の落ち着きを取り戻した帰宅後の布団の中でそう思った。


(あ、あ、あんなところに、捨てるんじゃなかった……指紋も、何もかも残っているのに……)


 もしかしたら今すぐにでも、この部屋に警察が駆けつけるんじゃないか。

 そうしたら無理やり部屋に押し入られて、ほのかちゃんを匿っていることもバレてしまうんじゃないか。

 そうしたら、そうしたら、そうしたら……。

 昨日の夜は、そんなことばかりを考えて一睡もできなかった。

 眠ることのできない暗い部屋の中で響くのは、ほのかちゃんの立てる静かな寝息と、そしてあの白いコートを羽織ったおばあさんの声だけだった。


『あなたは人の物を盗るのが好きなのかしら』


(――そ、そんなの、好きなわけ、ない……)


 それでも、そうやって築き上げてきた結果に今の生活がある。


『もう盗みをしなくても、あなたは生きていけるでしょう?』


(い、今さらその生活を変えるなんて……わ、私には……)


 確かにあかりちゃんやほのかちゃんといった友達はできて、彼女たちとは楽しくお喋りをすることができるようになった。しかし、それは私のコミュニケーション障害が直ったという事実とイコールであるわけではないのだ。

 私が未だに社会不適合者である事実は、決して変わることはなかった。

 

『今のあなたなら、世の中に合わせた生き方ができるはずじゃないかしら』


(や、やっぱり、怖い。し、社会が私みたいな、欠点だらけの人間を必要とするなんて、思えない……)


 とうてい自分が受け入れられるとは思えないそんな正しい世界へと、足を踏み出そうと思うことはできなかった。

 そして朝食を終えて、私がお皿を下げてほのかちゃんがちゃぶ台を布巾で拭く。

 それが終わるとほのかちゃんは小学生用のテキストをその上に載せて、ページを開いて熱心にノートに書き取りを始める。どうやら漢字の練習をしているようだった。

 私はそんなほのかちゃんの体面に座ると、ノートPCを起動した。


「あれ? このは、仕事は?」

「う、うん。その、やっぱり今日は調子良くないみたいだから、や、休もうかなって……」


 ほのかちゃんが首を傾げたのでそう返した。ほのかちゃんは「そっか、やっぱりそうだと思った」とだけ言って、漢字のノートに再び顔を向ける。

 私はそんな熱心なほのかちゃんに対して、自分が今日の仕事をサボってしまうことに多少の罪悪感を感じてしまう。


(で、でも、無理に行って、結局集中できなくて、失敗しちゃったら元も子もないし……)


 しょうがないよね、と立ち上がったノートPCのロックを解除する。

 久しぶりに今日は1日ネットサーフィンでもしようかなと思った。そうして気を紛らわして、眠気がきたら素直に眠ることにしよう、とも。

 デスクトップの画面が表示されると同時に、デフォルトのブラウザアプリが立ち上がる。

 そしてそのブラウザ上に表示されたニュース一覧を見て、私の息が止まった。


【置き引き被害女性、アレルギー用注射薬も奪われ重体】


『――とても、辛い目に遭うわよ。一生忘れられないような、そんな辛い目に』


 おばあさんの声が、再び脳裏に冷たく響いた。

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