第29話 変化
「あなたは人の物を盗るのが好きなのかしら」
その声に、私は反射的に真横を振り向いた。さきほどまで私の座っていたベンチ、そこに白いコートを羽織ったおばあさんがいつの間にか座っていて、そしてこちらを一直線に見ていた。
「……な、な、なん、で……!」
私は自然と、後ずさる。足音も気配もなく、突然その場所に現れたかのように座っているこのおばあさんはいったい何者なのか。わからないということが怖い。
しかし驚く私にはまるで興味を示すことなく、また私の疑問に答えることもなく、おばあさんは私が手に持つバッグに視線を向けると再び口を開く。
「届けるつもりでは、ないわよね? あなたはそれをそのまま持ち去るか、あるいはお財布の中身を抜き取って持っていくつもりなのでしょう?」
それを聞いて、私は真っ先に辺りを見渡す。他にこの会話を聞いている人は「いないわよ、心配しなくても大丈夫」と、おばあさんが私の思考をぶつ切りにするようにそう言った。
「それよりも答えてちょうだい。あなたは人の物を盗るのが好きなのかしら」
「…………」
「あら、まだ心配してるのかしら。本当に誰も聞いていないってば」
「……け、け、警察の方、ですか……?」
「あら、あなたこんな可愛いおばあちゃんを警察扱いするの?」
「…………い、いえ……」
正直なところで言うと胡散臭い他なかったが、しかしこのおばあさんは少なくとも警察ではないだろうと、それだけは私にもわかった。だいたい警察ならもっと静観を決め込んで、私がお財布から中身を抜き取って立ち去ろうとしたタイミングで声をかければ現行犯で逮捕できるのだから。
「私の疑いは晴れたかしら?」
「……は、はい」
私は頷いて見せる。するとおばあさんはニッコリと笑って、
「それじゃあ答えてね。あなたは人の物を盗るのが好きなのかしら。それがあなたの生き甲斐なのかしら?」と穏やかな声で、しかしそれにそぐわぬ剣呑な質問を再び投げてくる。
私は意を決するように、カラカラに乾いた喉を1つ鳴らして口を開く。
「……い、い、生き甲斐ってわけじゃ……ありません……」
隠し立ても無駄だろうと、素直にそう答えた。
何故かはわからないが、今私の目の前にいるこのおばあさんは、恐らく今日に限らないこれまでの私の窃盗の数々を全部知っているのだ。そうでなければ『人の物を盗るのが好きなのか』『それが生き甲斐なのか』なんて言葉は飛び出してこないはずだから。
私が正直に答えたのが良かったのか、おばあさんは元より皺くちゃの顔を満面の笑みでさらに皺くちゃにすると「そうなの。そうなのねぇ」と幾度かに渡って相槌を打った。
「生き甲斐でもなければ、好きでやってるわけでもないのよねぇ。でも、それじゃあなんであなたは人の物を盗るのかしら」
「そ、そ、それは……私がそうしないと、生きていけないから、です……」
「生きていけない?」
「は、はい……」
コミュ障で中卒でアルバイトをはじめとした社会経験もなく10年以上を引きこもりに費やした私に、それ以外に生きていく術などなかった。
いや、やっとのことで見つけた生きていくための術こそが窃盗だった。
「そうねぇ。確かにあなたはあの時それ以外の道で生きていくことができなかった。私にだってわかるわ。あなたが『生きる』ためのハードルは他の人のそれとは比較にならないもの。他人に接さず、注目を浴びず、そして自分の生活を成り立たせるためだけのお金を稼ぐことが、あなたにとっての『生きる』ために必要なことだった」
「……そ、そうです」
おばあさんの言う通りだった。まともに身を立てて生きていくことなんて、私にはできることじゃない。人間関係が生じる以上はどんな職業のアルバイトだってできる気はしなかったし、こんなコミュ障じゃまず面接にも通らないだろう。むしろ、私の方から当日欠席して逃げていたかもしれない。
いったい、このおばあさんは何者なのだろうか。
私の心の内を丸裸にされているような感覚に陥る。
「生きていくのって、それだけで難しいことよねぇ」
「は、はい……そう、思います……」
おばあさんが吐き出した息に載せるように言った言葉へと、頷く。
本当に難しいことだと、私がその現実に耐えきれないほどに難しいことだと、そう今までずっと思っていた。
でも今では、
(こ、この窃盗の技術があれば、これからもなんとか、なっていくんじゃないかな……)
と、そう思えるようになっていたのだ。
私の生活を一変させてくれて、そしてあかりちゃんというお友達やほのかちゃんという家族を新しく作れるようにしてくれた、窃盗というこの力があれば。
私たちと同じ空の下で何事もなく暮らしているその他大勢の人々と同じように、身の丈くらいの幸せを掴むことができるんじゃないかと――。
「――とても、辛い目に遭うわよ。一生忘れられないような、そんな辛い目に」
「…………え」
私の思考の狭間に、ずっしりと重たい声が割り込んた。顔を向ければ、おばあさんはとても悲しそうな目をしてこちらをジッと見つめていた。
「もう、お止めなさいな」
「……え?」
「もう盗みをしなくても、あなたは生きていけるでしょう?」
この人は何を言っているのだ、と頭が真っ白くなる。さっき私に理解を示してくれていたようだったのは何だったのだろうか。
私は、窃盗以外に満足に生きていく術を思いつけなかったからこそ、今の今まで人のお金を盗み取ってきた。それをさっき、このおばあさんも認めていたのではなかったのか。
「認めているわよ。あの時のあなたはそうやってしか生きていくことはできなかったって」
声に出していないにもかかわらず、私の考えを見透かしたようにおばあさんは続けて口にした。
「あ、あ、あの時の私……って……」
「そうよ。絶望の淵から命を拾って、公園でサラリーマンのお金をくすね盗ったあの時のあなた」
――本当に、何者なのだろうか。
これじゃあまるで、私の過去の行いを本当に後ろから見てきたようではないか。
「あ、あ、あなたは、いったい……?」
「そんなことは今どうでもいいのよ。今はあなたのお話をしているの。ねぇ、あなたはもう、あの時のあなたとは別人なんだっていうことは、あなた自身が1番よく感じていることでしょう?」
「……ぁ……う……」
それは図星だった。おばあさんの言った通り、それはさきほど私がベンチに座ってぼんやりと思っていたことだ。
半年前の自分とは生き方も何もかもが変わってしまった今の自分を思って、自分が自分自身じゃないみたいだと考えていたことだった。
「今のあなたなら、世の中に合わせた生き方ができるはずじゃないかしら。どれだけの人たちとお話できた? お友達もできたでしょう? 家族だって。あなたは充分に変わったわ。だから、あなたの生活だってきっと――あら、もう時間みたいね」
おばあさんは急に言葉を区切ると私から視線を外して、公園の入り口を見やった。その視線にならうようにして私もその入り口を見たが、しかしそこには何もなかった。
「もうしばらくすれば、さっきの女性が忘れ物を取りに現れますよ。あなたはそのバッグをどうするのかしら……?」
私はその時、ようやく自分がこの目の前のベンチに置き忘れられていった巾着バッグを手にして立っているのだと思い出し、そして『忘れ物を取りに現れる』という言葉に慌てた。
「――あ、あっ……!」
今まで手に持っていたそのバッグを震えた手が取り落としてしまう。
急ぎ屈んで拾った。後ろから足音が近づいてくるような、そんな感覚に心が急き立てられる。
――私は次の瞬間にはバッグを抱えるようにして、駅から離れるように走り出していた。
とっさのことで自分でも何が何だかわからなかったが、事実だけを受け入れるのであれば、私はこの巾着バッグを持って逃げ出してきてしまっていたのだ。
しかしもう足を止めることはできなかった。誰の視線も届かない場所まで、私は走り続ける他なかったのだ。
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