第25話 『してい』かんけい

「よーし……とりあえずここまでくればダイジョーブかな」

「ぜぇっぜぇっ、ハァッハァッ……」

「なんでそんなにつかれてんの? ちょっと走っただけじゃん」

「ひゅ~~~ッひゅ~~~ッ!」


 返事もままならぬほど、今の私には呼吸が大事だった。

 約10年にも及ぶ引きこもり生活は、私から運動能力を一気に剥ぎ取って行ったらしい。

 いくら吸ってもまるで酸素が入ってこないかのように、私の肺が悲鳴を上げている。

 脚も生まれたての小鹿のようにガクガクと震えて頼りなく、多分指先で一押しされるだけで私は為すすべなく地面に倒れ伏すだろう。


「ったく、せわがやけるなー」


 と、依然として握りしめられた手を引っ張るようにして少女が歩き出す。

 

「ち、ちょちょちょちょっと待って……ぜぇぜぇハァハァ……」

「ベンチの方に行くだけだって。すぐだよすぐ」


 そう言われて気づいたのだが、私たちが走り込んできた先は公園のようだった。

 それもこの少女と初めて私が万引きした際に逃げてきた先と同じ公園だ。


「ホラ、すわっていいよ」

「あ、ありがとう……」


 とにかく座れる場所がありがたくって、そう言ってすぐに腰かける。少女もまた私の隣に座った。

 冷静に考えれば、なにもお礼を言わなければいけないようなことはなく、むしろ一方的に巻き込まれて文句を言ってもいい立場ではあったのだが、しかし残念ながら低酸素状態の私の頭がそれに気づくことはなかった。

 しばらくお互いに無言の時間を過ごしている(私は息を整えている)と、隣からとてもいい匂いがしてくるのに気が付いた。揚げ物のいい香りだった。


「……コ、コロッケ……?」と呼吸の落ち着いた私が問いかけると、少女はコクリと頷いた。


「うん。コロッケだよ。あ、言っとくけどあげないよ? これが今日のわたしの『ばんごはん』なんだから」

「い、い、いや……別に欲しいわけじゃなくって……」


 少女はそんなやり取りの間にも美味しそうに揚げたてと思しきコロッケを頬張って、幸せそうに表情を歪める。

 

「き、今日はそれを盗って、それで追いかけられていたの……?」

「うん! まあね」


 そんな事実をさほど気にもしていないかのようにして、少女は快活に頷くと、そのままコロッケを頬張り続けた。

 そしてそれを食べ終わるとこちらを向き、


「あんた、名前は?」と聞いてくる。


「む、紫木葉……」

「ふ~ん、このはっていうんだ。むらさき色の葉っぱってことは、コーヨーってやつだろ?」

「う、うん……紅葉ね。そ、それで、あなたは……?」

「へ? なに?」

「だ、だから、あなたの、名前……」


 おずおずと尋ねる私に少女はニカーっと笑って、


「おしえないっ!!」と一言そう言い切った。


「え、えぇ……?」


 なんだかそれって、ズルい。そうは思うけど、万引きの常習犯にズルいって言ってもなぁとも思う。

 言ってしまえば私自身も盗みの常習犯なのだから、そういう意味ではこの少女よりもよっぽどタチが悪い。

 だからそれ以上特に文句も言わずに黙っていると、少女が口を尖らせ始めた。


「なんだよぉ~~~ししょーの名前、知りたくないのぉ~~~?」

「し、し、師匠……?」


 急に何のことだろうと首を傾げると、「おんしらずー!」と少女が指を差してくる。


「あれだけ万引きのコツを教えてあげたじゃないかっ!!」

「ち、ちょ……っ!! シーーーッ!! シーーーッ!!」


 大声で何てこと叫ぶんだと、私は人差し指を口に当ててそう言いつつ、周りをキョロキョロと見渡した。

 人通りはまばらで、少女の突然の声に驚いているような人は見受けられなかったので、ホッと一息吐く。

 

「わたしが『ししょー』で、このはが『でし』だろ?」と少女はそれがさも当然だというように腰に手を当てて言い切った。


 しかし『このは』って。私はいつの間にか下の名前で呼び捨てにされていた。そんなこと、両親以外にされたのは初めてだ。


「う、う、うん……まあそれで、いいや……」と、私が諦めたようにそう言うと、少女は再び満面の笑みで「それじゃあししょーの名前は知っておきたいでしょ~?」と私に迫る。


「え、え、えっと……教えて、くれるの……?」

「わたしのねがいごとを1つ聞いてくれればおしえてあげよう」

「う、う、う~~~ん……」


 私は別にそこまでして知りたくはなかったけど、また変なことを大声で口走られても困るので「で、できることならいいよ」とちょっとズルして返した。できそうになかったら適当に言い訳して帰ろうと思う。


「やったー! わたしの名前はほのか。漢字はわすれちゃったけど、まあひらがなでいいでしょ」

「え、え、え? あれ、願い事が先じゃないの?」

「これから言うよ。でもわたしが先に名前を言ったんだから、もうねがいごとを聞けないとかはナシだからね!」

「え、え~~~っ!?」


 少女――ほのかちゃんは「やーいひっかかった~!」と、よっぽど愉快だったのかスキップをしながらベンチの周りをグルグルと回る。

 小学生くらいの子供特有の頭の柔らかい(というか屁理屈じみた)問答に私は1つため息を吐いた。


「そ、そ、それで……? 願い事って、何……?」

「今日さ、このはの家にわたしをとめてよ」


 無邪気な笑顔はそのままに、ほのかちゃんはそう言った。

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