第20話 掃除
つい数週間前までは何事もない学校生活が続いていた。
それが崩れたのは夏も近い高校2年生の期末考査が終わって、その結果が返ってきてからのことだったという。何気ない担任の一言が全てを変えたのだ。
『学年トップはまたしても矢澤だったな! さすが奨学生だけあって勉強への打ち込み方が違う。このままの調子が保てれば東國大の推薦枠も間違いないだろう』
奨学生、考査の順位。それらはこの学校ではあまり表立って公にしないようにしているもののはずだった。
奨学金を貰っているという事実はプライバシーの問題があるし、考査の順位に関しては元々が名門の進学校である明野宮において、勉学における生徒同士のしのぎの削り合いは茶飯事であったから、公にしてしまうことで火に油を注ぐことになるのではと学校側が懸念したからだ。
しかし進学校の中でも特進クラスの生徒を受け持ち、大きな成果を挙げたいと野心を抱く担任にとっては、さらなるライバル意識を刺激してクラス全体の学力を向上させたいと思ってしまったのだろう。
発破だったのかもしれないその一言は、しかしあかりちゃんの日常を大きく壊す一因となってしまったのだ。
『……チッ』
一因、という言葉の通り、他にも要因があった。
それが――富田。あかりちゃんと同じクラスであり、学年トップクラスの成績を収めている富田にその担任の言葉がおもしろいものであるはずもない。
富田もまた日本国内最高学府である東國大学への進学を望んでおり、そしてその推薦枠は1つしかなかったのだから。
『奨学金貰っといて推薦まで貰おうだなんて、厚かましい話だぜ』
『ったくだよ。なんでもかんでも欲張りやがって。世の中ナメてんだよ、コイツ』
富田たちがあかりちゃんの陰口を叩くようになってからクラスの空気は一変してしまった。
富田の自身の成績の良さを鼻にかけた素行の悪さは、クラスの一部を除いた生徒たちを閉口させるものではあったのだが、しかしその騒がしさや威圧的な態度からクラス内では『上位』の立ち位置にいたのだ。
最初はあかりちゃんを庇って富田たちに抗う生徒たちも少なからずいたが、しかし徐々にその数を減らしていった。
脅されたのか、それとも実際に何かをされたのか、裏で何があったのかはわからないが、結局のところ大人しい生徒が多く集まる進学校において『君子危うきに近寄らず』を実践する生徒が大半だったということだ。
最後まであかりちゃんの側に居ようとした天野さんだったが、しかしあかりちゃんはそれを突き放した。
『さくちゃんを巻き込みたくないの……。だから、もう私に構わないで。ごめんね……』
そうして富田の意思がクラスの総意になるまでにそれほどの時間はかからなかった。
『上位』に座する者が『下位』にとっての絶対。典型的な『スクールカースト』がそこには在った。
――以上が私が天野さんから聞くことになった話、『あかりちゃんが元気を無くしている理由』だった。
(あ、あ、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない……!!)
気が付けば私は天野さんと別れ、自宅の最寄り駅まで帰ってきていた。舗装された川沿いの並木道を歩きながら、私はその言葉だけを頭の中でグルグルと回している。
だって、おかしい。ありえないのだ。大学の推薦枠が、『それっぽち』のことがあの誰にでも明るくて優しい性格のあかりちゃんを虐める理由になるなんて。
しかも富田があかりちゃんに学力で劣ることが全ての原因だぞ? あかりちゃんのどこに落ち度があるというのだ。
そして、イジメの内容に対しても私の腹は煮えくり返っていた。
私物を隠したり、汚くしたりというやり口はよく聞くものだった。だからきっとクラス全体でそういうことができてしまう雰囲気になっているのだろうと眉をひそめた私に、しかし『そういった古典的なことはもちろんあります』とさらに衝撃的な内容を天野さんは告げていった。
(た、た、助けを求められないような場所で、背中から思い切り突き飛ばして、怖がるあかりちゃんの様子を動画で撮影する……? それを見て仲間内で嗤ってる……?)
悪質極まりなかった。それがどれだけ怖いことか想像に難くない。
単純な暴力じゃ男に敵うはずがない、それくらいのこと、女の子は中学生に上がれば誰だって痛感してしまう。
そして、何よりも。
『最近は、せ……性的な嫌がらせも、あるみたいなんです』
(ク、ク、クソ、クソクソクソクソクソが……! 許されるわけ、ない……!)
腹の底から湧き出る怒りは留まるところを知らない。しかし、憤慨に心を委ねても問題が解決しないのだということくらいはコミュ障で社会不適合者である私にだって理解することはできた。
(で、で、でも……どうすればいいんだろう。私に、いったい何ができるのだろう……)
老人やペット連れの行き交うこの道をフラフラと当てもなく歩いている私には何の力もない。
セミフォーマルなジャケットに身は包めても、働くなんてことできやしない。犯罪で生計を立てるその日暮らしの卑しい人間だ。
「はぁ……」
自分の無力さにため息が出る。もう少し早く引きこもりを直せていれば、まともな社会人になれていれば、こんな悩みも簡単に解決できるようになっていただろうか。
益体もないIFの世界を想像する私が進む先の道中で、片手に小さめのバッグを持ったおじいさんが驚いたようにして立ち止まった。バッグとは逆の手に持ったリードがピンと張っている。
「あぁあぁ、コラ! お前はまたそんなところで……!」
おじいさんがリードの先にいる犬を振り返って咎めるように言う。連れの犬が突然立ち止まり、その場で座り込んで小水を垂れ流し始めたのだ。
どうしてもそこでしたかったのだろう、犬は「こんなところで」と困ったように口に出すおじいさんに構う様子もなく、確固たる意志でもあるかのようにそこで小水を続けた。
私は数歩横にずれて、その現場に自分の足跡が重ならないように歩く軌道を修正する。
(き、き、きみはいいよなぁ、自由で。学歴も何も、関係ないし。そもそも学校へ行かなくていいし……)
心の内で犬へと声を掛けた。もちろん犬が答えるはずもない。
「終わった? 終わったね? まーったくお前は、公園に行くまで我慢できなかったんか」とおじいさんが、バッグからペットボトルを取り出して、犬が用を足した場所へと水を撒いた。
小水が、汚物が、水に流されていく。
私はその様子を見て、「あ、あぁ、そうか……」と簡単なことに気が付くのだった。
(お、汚物が道を塞いでいるのならば、『掃除』しちゃえばいいんだ……)
水を撒くなり燃やすなりして強引に消してしまえばいい。
それくらいなら、私にだってできるかもしれない。考えてみれば私の取り柄はそういったところにしかないじゃないか。
――これまでの人生で為したことといえば『犯罪』くらいしかないのだから。
一陣の風が私の背中を押すようにして強く吹き、長い髪を巻き上げる。
犬は尻尾を振って私の横を通り抜けて行った。
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