第7話 事件は起こらない

 男が去っていった公園の入り口を見つめて、私は安堵に胸をなでおろした。

 公園の奥のベンチに腰かけて、私は菓子パンを齧りながら男が起きるのをずっと待っていたのだ。

 財布が落ちていることに気が付いた男は案の定、財布の中身を確認していた。

 しかし確認しただけで、その後は何事もなかったように、何も変わったことなどなかったように、歩き去った。


 ――私はこれからの自分への試金石としての『賭け』に勝ったのだ。


 私は履いてきたジーンズのポケットの中に手を入れて、窮屈さにしわくちゃになったそれを取り出した。

 現金、1万1000円。


(と、盗ってしまった……)


 それは自分が盗みを働くという、決して人に褒められることではないどころか、むしろ非難されるべき行いをしてまで生きていけるかどうかを試すための賭けだった。

 もしこの時点で盗みがバレてしまい男に詰め寄られ糾弾されようものなら、きっと私にはこの行いが向いていないし、必要な運もないと思う。

 だからあえてこの場から立ち去らず、男の反応を待ったのだ。

 結果は詰め寄られないどころか、何も訊かれない。

 むしろ、そう。

 男は自分のお金が盗まれたということ自体に気付いていなかった。


 ――突然だが、私は自分の財布の中身にあといくら入っているかを正確に把握できていないことが多い。


 そこで私が思ったのは、大体の人は『有る』か『無い』かでしか、確信を持って物事を覚えていると言うことができないんじゃないか、ということだ。

 だから私は財布の中身の3万4000円を全ては盗らずに、1万円札と千円札を1枚ずつ抜き取るに留めた。

 狙い通り、男は騒いだり疑問に思ったように辺りを見回すなどの行動を取らなかった。

 もしかしたら『あれ? こんなに少なかったかな?』くらいの疑問は持ったかもしれないが、それはきっと疑問止まりだ。

 人は自分を疑ってしまう生き物だ。

 だからこそ間違っても警察に届け出などはせずに、『自分の記憶違いで、実際に入っていたのはこれくらいのものだったかな』と自分を納得させて仕事に戻るに違いない。


『完全犯罪の推理小説なんてどこにもない。何故なら事件は起こらないから』


 以前に小説でそんな一文を見かけたことがあったが、今はまさにその通りだと全肯定できる。

 起承転結の『起』がなければ、警察も探偵も呼ばれることはないのだ。

 私が盗みという犯罪を後にも先にも誰にも気づかれずに行えば、私のその行為を始めとする事件は起こらない。

 生活を平穏なままに、私は生き続けることができるのだ。

 見咎められる事のない生き方を見つけることができた高揚感に、いつの間にか私の中で法に背くことへの罪悪感は消えていた。

 人からお金を盗むという行為には勇気がいるけれど、でもそんなのは些細なことだった。

 だって私は、自分自身さえ殺す覚悟を持てたんだから――。

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