第6話 人生の転機
白い壁の並ぶ住宅街に、木々と茂みで囲われた公園だけが緑色で目立っていた。
最近はあまり来なかったけど、気分転換がしたくなった時に人目の無さそうな時間帯を狙ってよく訪れる場所だ。
(だ、だ、誰もいない……よね?)
昼時の今、この周辺に住む人たちは自宅でご飯を食べている頃合いで、この公園に人がいることはない……はずだったのだが。
ベンチで横になる人の姿がそこにはあった。
即座に回れ右をして引き返そうと思ったが、あることが気になった私はそろそろと足音を忍ばせながら近づいた。
その男は汚らしくもなく、特段に仕立ての良いスーツを着ているわけでもない、いたって普通の外回り中のサラリーマンのようだった。
よっぽど疲れているのか寝不足だったのかは分からないけど、その男は熟睡しているようで私に気がついて目を覚ます気配はまるでない。
そしてそのベンチの脇に目をやる。
落ちていたのは、黒革の、使い込まれたのがよくわかる折り畳み財布だった。
音や風を立てないようにゆっくりと身を屈めてそれを拾い上げる。
――………………。
数瞬の間を置いて、私はその財布の中身を確かめる。
紙幣が、3万4000円入っていた。
ゴクリと喉が大きく鳴る。
私は思いがけないその音で男が目覚めないか心配したが、こちらの緊張をよそに男は寝息を立てたままだった。
再び、手元の財布に視線を移した。
――これは、いけないことだ。
自分がいったい何をしでかそうとしているのか、ちゃんと理解している。
だからこそ理性が頭の内側で私をいさめた。
――私がやろうとしていることは犯罪だ。
やっていいこと、悪いこと。
ちゃんと理解している。
社会の法を遵守すること、私が生活するために必要なことが秤にかけられていた。
法か、3万4000円か。
圧倒的多数の人は考えるまでもなく法に傾くことだろう。
小刻みに、私の手が震えた。
しかし、
――なんで私を知らない人たちのことを、私が気にしてあげなきゃいけないんだろう。
私の頭にその言葉がよぎった。
そう、私はこのベンチの人を知らない。
ベンチのこの人もきっと私のことなんて知らない。
第一、私のことを知っている人なんてもう、この世界にはいない。
誰も私に手を差し伸べることなどなかった。
そんな世界の中で、私のことを知らずに暮らす誰かを、私がわざわざ気にかける必要はあるのだろうか?
だから。
その財布の中身を、私は――――。
陽が住宅の陰に隠れたからか、気持ちよさそうにベンチで眠っていた男が大あくびをしながら体を起こす。
自身のいる場所とは対角側のベンチに座る私に気づいて、男は恥ずかしそうに頭をかいていそいそと立ち上がった。
そして歩み去ろうとしたその時、男は自分の足元に何かが落ちているのに気が付く。
「おっと、危ねっ!」
それはその男自身の黒革の財布だった。
そしてそれを急いで拾って中身を確認する。
「……………………」
ホッと一息、そしてパタリと財布を閉じると、男はジャケットのポケットへとそれを突っ込んだ。
そしてまだ寝足りないとでも言いたげなゆっくりな動作で、男は公園の出口へと歩いていくのだった。
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