第9話

「琉生!あそぼ!」


 あれからまた2週間と少し。琉生がハイドに出会って1ヶ月が経った。

 ハイドは、琉生の日常になりつつある。ASCの面々に言われて警戒はするよう努めてはいるものの、やはり彼女といるとひどく居心地がいいので、つい琉生は油断してしまう。


「何かわかった?自分のこと、アタシのこと」

「いや、まだ分からないけど…でも、一つだけ分かったことがあるよ。

 …あの古書店で見つけた本は、『ジキル博士とハイド氏』じゃなかった。『ジキル博士とハイド氏』はペーパーバックだ、あんなに分厚くない。つまりあの本に触れて発現した僕の能力は『ジキル博士とハイド氏』ではない。そういうことだね」


 その台詞に、ハイドは笑って頷く。


「うん、そうだね。あの本は『ジキル博士とハイド氏』じゃない。けれど、そうじゃないと断言するにはまだ早いかな〜」

「どういう意味…」

「あっ、ねえねえ琉生!あれ見てあれ!タピオカ!!」

「のわぁっ!?」


 ハイドはタピオカドリンクの店を見つけるや否や、琉生の手を掴んでそちらに走っていった。


「すいませーん!タピオカミルクティー2つくーださーい!」

「はーい」


 愛想の悪い店員が間延びした返事をしながら、慣れた手つきで茹で上がったタピオカとミルクティーをプラスチックのコップに注いでいく。耳を澄ませれば、どこからかひそひそと、悪意のある声も聞こえてくる。

 ……何回か彼女と遊んでわかったことがもう一つ。『ハイドは、相対した人間に最悪な印象を与える』。これは『ジキル博士とハイド氏』に登場するハイド氏と同じ特徴だ。図書館の時に目撃者の証言が食い違ったのは、見た人の『嫌いな人間』の特徴だったらしい。

 ……何もせずとも会う人会う人に嫌われるというのは、どんな気持ちなのだろう。


「……」

「琉生、タピオカできたよ?」


 はっと顔を上げると、ハイドがタピオカドリンクを2つ持ってこちらを覗き込んでいた。


「あ、ああ…ごめんごめん、行こうか」

「うん!」


 駅前の噴水の縁に座って、冷たいミルクティーを啜る。日差しは強いが、噴水の水音は耳に涼しく、ミルクティーとタピオカの食感は舌に楽しく、暑さを和らげてくれる。

 早いことに、季節はもう夏。今年は梅雨が異様に短く、水不足が予想されるそうだが、今を自分のために生きる若者たちには、あまり実感のない話だ。


「はー、おいしー!」


 隣でさも美味しそうにタピオカミルクティーを飲むハイドは、琉生の目にはただの少しやんちゃそうな少女にしか見えない。何故自分にだけ、彼女が普通に見えているのだろう。


「…ねえ、ハイド。他人の本の虫を奪うイドって、知ってる?」


 ふとASCで聞いた話を思い出して、聞いてみる。


「んぇ?そんなのいるの?」

「あくまで噂なんだけどね。…ASCの人達は、僕の本の虫は、もしかしたら…」

「……アタシが、琉生の能力持ってっちゃったかも、って?」


 胸にしまっていた疑念を口に出され、思わずびくりと手が震える。


「……うん。見方によってはそうかもしれない。アタシの力は琉生の力だ。

 でも、奪ったわけじゃないんだよ。アタシは最初から最後まで、徹頭徹尾、琉生のもの。この力は琉生を守る時、そして、琉生が何かをしたいと思った時にだけ使えるの。…いきなりこんなこと言われても、信じられない、よね。でも、アタシは琉生に嘘は絶対につかない。アタシは琉生の友達だから」


 そう言って笑うハイドの顔が、何故か陰になってよく見えなかった。






「もうすぐ期末テストだね、琉生」

「うん」

「…また、べんきょういっぱいしなきゃいけない?」

「そうだね。そうじゃないと追いつけないから」

「そっか…」


 目に見えて寂しがるハイドの頭を、そっと撫でる。心地良さげに目を細めて大人しく撫でられるその姿は、どちらかといえば愛玩的な可愛らしさがある。


「夏休みになったら、宿題全部終わらせて遊ぼう!アタシも手伝うよ!」

「…ん」


 夏の夕焼けが、少女の頬を照らす。八重歯の目立つ笑顔が眩しくて、琉生は思わず目を伏せた。


 またね、琉生!


 いつもの別れの挨拶の後、琉生はハイドの背中が見えなくなるまで見送った。

 胸の締め付けられる感覚には、敢えて気付かないふりをした。










 ──夢を見た。保育園時代の夢。

 自分はずっと部屋の隅で絵を描いていて、クラスメイトと遊ぶことはほとんど無かった。


「るいくん、あそぼ!」

「………」

「だめだめ、そいつ全然しゃべらないし」

「変なんだよ」

「ほっとこうよ」


 友達がいなくても平気だった。自分のやりたいことだけやりたかったし、喧嘩や物の取り合いも嫌いだったから、一人でいた方が楽しかった。


 けれど、夢の中の自分がふと隣を見ると、そこには『誰か』がいた。


「るい、いっしょにおえかきしよ!」


 顔も声もハッキリしないけれど、その声と笑顔にいつも救われていたのだと、何故か理解出来た。






「……夢、か…」


 高速バスの揺れで目を覚ます。時刻は午前2時過ぎ。

 向かう先は首都東京。本部にてASCの支部長会議があるらしいのだが、琉生は事情が事情なだけあって、本部に直接顔を出すいい機会だと、土日返上で連れていかれることになったというわけだ。


「……本部、か。どんなところだろう」


 まあ、支部でさえ個性の塊なのだから、本部なんて個性の蠱毒状態なのは見て取れるよなぁ、などと思いながら、琉生は再び眠りにつくのであった。

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