第3話
登校の時間が過ぎ、寮内は静まり返っていた。誰もいないことを確認して壁に張りつき腰をかがめ、音を立てないようにそろそろと進んだ。あともう少しで階段の登り口だというところで背後から足音がした。
「ルナ・アヴローカ。ちょっと、お待ちなさい」
鋭く甲高い声。マダム・ポリィだ。厄介な人に見つかってしまった。彼女は女子寮の管理者で、普段は世話好きで穏やかな人なんだけど、違反については人が変わったように凄まじく厳しい。
マダム・ポリィの顔を見た途端、体がすくんで動けなくなってしまった。朝の事件と合わせて、いまここで彼女に咎められ学園に違反を連絡されたとしたら、本当に退学になってしまうんじゃないか。そんなことを考えていると脇の下からは変な汗がどんどん湧いて出てくる。
「まあ、ひどい顔。一体、何があったの」マダム・ポリィはわあっと大きな声をあげた。そして口に手を当てて驚いた顔をしている。
「とっ……途中で転んでしまって」私はビクビクしながら答えた。
「まったく……。顔中に擦り傷を作って、それに血も出てるわ。レディには相応しくない傷ね。とにかく手当てしましょう」
マダム・ポリィが持ってきたのはさわやかで透き通った香りがする傷薬だった。塗られたそばから熱を持っていた肌が落ち着いていく。モヤモヤとしていた気持ちがほぐれていった。
私が香りにうっとりとしているとマダム・ポリィがひっぱたかれた頬の方を指でつついた。
「ねえ、正直におっしゃい。まさか誰かにひどい目に遭わされた……ではないでしょうね?」まるで探偵が犯人の目星がついたと言わんばかりに確信がこもったような目で私を見つめている。
「ちっ違います」私はまた情けないぐらい緊張してしまって、おどおどと答えてしまった。
マダム・ポリィは怒っているような呆れているような、なんともいえない表情をした。「私が連絡してあげますから、今日はお休みなさい」といって、私を部屋まで送ってくれた。
部屋に戻ると私は真っ先にベッドに転がった。淡いラベンダー色にベージュの花模様が描かれた壁紙、天井の複雑な模様。この寮に住んでもう五年になるのに、ここじゃないどこかに住んでいた記憶が何もかもを初めて見るような気持ちにさせる。
でも私は、ルナ・アヴローカ。アヴローカ伯爵家の長女。家族は父と二人の兄がいて。家族は王都にあるタウンハウスに住んでいる。一番上の兄が家を継ぎ、下の兄が事業を承継して、私自身は政治的な駆け引きに使われることもなく、自由に過ごしていた。
我が家は貴族でありながら実業家としての顔も持っていて、魔素の流れを制御する集積回路の設計や製造を行っている。そのためか魔素の扱いや魔法の仕組みに関しては幼い頃から厳しく教えられ、リーヴス魔導学園に通うことを強制されていた。
家からは進路を強制されていたが、学園での生活は楽しかった。それも今日までの話だ。
「異世界転生なんて願い下げだよ」私は大きなため息をついた。
ルナになる前のことは断片的にしか思い出せない。これは幼かったころのことを正しく思い出せないのと同じような感じ。それなのに、ゲームの中でのことは鮮明に思い浮かんでくる。
「そらみつ」はヒロインの学園改革を邪魔する者は監督生たちにことごとく罪を追求され学園を追放される。退場していくのは大抵高位の貴族ばかり。一体、貴族に何の恨みがあるんだと思うぐらいだ。
きっと私は退場しなければならない。これから先のストーリーには一切登場することができない。名前も与えられていない悪役。これから出てくる悪役を引き立てるための噛ませ犬。
私より後に退場するキャラクターたちは没落、流罪、投獄と苦痛をともなう刑罰を受けていたけれど。私だって下手をすると勘当されるかも。そうしたらもう学校にも家にもいられない。考えているうちに不安で胸がしめつけられる。天を仰いで絶望的な大きなため息をついた。
「私に物語の強制力を跳ね除ける力があればなあ」
乙女ゲームの中に転生してしまった悪役令嬢はたいてい最悪のラストを迎えないようにとフラグを折ったり、正しく生きてみたりして物語自体を変えていく。
そのときはっと閃いた。私は悪役令嬢にもなれないモブな悪役だけど、他の悪役とは違ってただいなくなっただけで、退場の理由は何も描かれていなかった。だから、学校からいなくなった理由なんてどうだってできるんじゃないか。
――――よし、とにかく家に帰ろう。
ベッドから体を起こして壁にかけられたカレンダーを見る。明日は外泊許可日。なんていいタイミングなんだろう。
もしかしたら、もうここには戻ってこないかもしれない。そう思った途端に学園での思い出があふれてきた。涙が出そうになるのを堪えて、私はクローゼットから一番大きなトランクを出して荷造りを始めた。
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