第4話

「――学校を辞めたいだと」


 朝一番に寮を出発して家についたのがちょうど午前のお茶の時間だった。静かな部屋の中で父の手の中にあったカップとソーサーが当たって悲鳴みたいな大きい音を立てた。給仕をしていた従者がティーポットを落としそうになって真っ青な顔をしている。父は額に手を置きうなだれたまま何も言わず椅子に座っている。


「学校を辞めてどうするつもりなんだ」父は不機嫌な声を出しながら顔を上げて私の顔を見つめた。


「……」


 学校を辞めると言ったのは退学にされる前に自主退学した方が外聞的にも良いと思ってのことだった。その後のことなんてまったく考えていなかった。私の浅はかな考えを見透かすように父は私から視線を外さない。私は緊張した。


「音楽家になります」私の口からとっさに出たのがこの言葉だった。


「あの下手くそな腕前でよくも言えたものだな。一体、お前は何を考えているんだ!」


 父は呆れてものも言えないといった表情を作った。確かに父の言う通りだった。幼い頃より先生をつけてもらって習っていたリュートは、残念ながら音楽家になれるほどの才能がなかったようで、今ではささやかな趣味と化している。


 ついうっかり憧れを口にしてしまったことを恥ずかしく思ったが、退学での退場を防ぐためにも引き下がっていられない。すがるように父をじっと見た。


「ルナ……まさか……学園で……」


「ええっ?」


 心臓がどきんと跳ねる。父の推測に驚いてどうしてよいかわからず、おどおどと父の顔を眺めた。


 二人の間に張り詰めた空気が広がってきたとき、コツコツとドアを叩く音が聞こえた。執事が来客を案内する。部屋に入ってきたのは父の弟のハリソンだった。


 叔父が我が家にやってくるのは珍しかった。たいていは領地のある田舎にずっと引き籠っている。これまで片手で数えられるほどしか会っていない。社交嫌いで王都までやってくるなんて珍しいのに、ましてや収穫で忙しくなる秋でもあるのにだ。


「二人ともなんだか険しい顔をしているね。何かあったのかい」


 叔父が夏用の柔らかい帽子を脱ぐと淡いピンク色の髪が踊るように広がった。かっちりとした父とは違って、装飾が省略された、まるでビジネススーツのような服を身に纏っていた。とても洗練されていて叔父だけ時代が進んでいるかに見えた。


 私と父は顔を見合わせた。叔父はふふっと目を細めて笑っている。父は口を開かなかった。私も本当のことが言えず「あっ……その」と口ごもった。


「ついに学園でとんでもないことをやってしまったとか」


「とんでもないことではないです!」焦って出した声は自分でも驚くほど上ずっていた。


 叔父は明るく笑いながら「ルナは正直だな」と言ってから、すぐに父の方に向き直った。


 父は眉をしかめて今まで以上の厳しい表情になった。


「お前が現れたということは手紙をよこした件か」


「もう、時間がないんだ。なるべく早く返事が欲しくてね」


 叔父の言い様に父は忌々しそうに舌打ちした。眉間のしわをさらに増やし恨みがこもった顔で叔父を睨みつけていた。父がここまで感情をあらわにすることはなかったと思う。


「ルナ、お前との話は後だ。少し部屋を出ていなさい」


 父に命令された執事がドアを開いて待っている。私は後ろ髪を惹かれる思いで部屋を出た。



 時計の針が3時をさしたころ、応接室に呼ばれた。部屋に入ると父と叔父がなんでもなかったような感じでお茶を飲んでいた。二人の話合いは無事終わったようだった。


 私は席に着くとテーブルに綺麗に並べられたサンドイッチや焼き菓子を見て嬉しくなった。給仕係が私の前にりんごが乗ったケーキ置いたので、ちょうどお腹が空いていたし早速とフォークに手を伸ばした。


 父が咳払いをした。「学校を辞めたい……だったな。条件付きで認めてやることにした」なにかに耐えるようにかすれた声で言った。


 はっとして伸ばした手を引っ込め父の顔を見た。まさか認めてもらえるなんて思ってもいなかった。けれど父のあまりに憔悴仕切った表情にショックを受けた。


「……本当によいのですか?」私は我を忘れて父を見つめた。


「一年だけだ。お前にはノルテナフスに行ってもらう」


 私は静かにうなずいた。ノルテナフスがどこかは分からないけれど、父が知っている場所なんだから学校を退学になって家から勘当されるよりは、よっぽどましだと思った。


 父が私の肩を抱き寄せた。父の肩がかすかに震えている。苦しげに私の名を呼び、愛おしむように頭を撫でてくれる。なぜ今生の別れみたいな空気になっているのだろう。私は首をかしげた。


 夜なると兄たちが戻ってきて、いつもより豪華な食事が振る舞われた。いつになく兄たちは切れ目なく話をしている。話題は私の幼い頃の話だった。私は口を利く気にもなれず目の前の食事に集中することにした。料理はどれも素晴らしく美味しかった。夢中になっていたらあっという間にデザートまで食べ尽くしてしまった。


 父や兄がシャンパンを飲み始めたので、席を立ちテラスに出た。時間が経つほどにしんみりした空気になっていくのが耐えられないからでもあった。夜の風はキリッと冷めたく、気持ちを落ち着けるには十分だった。


 ふいに叔父が私の名前を呼んだ。振り返ると恐ろしいほど冷え切った顔をして立っていた。いつも冗談を言って明るく笑っているイメージが強かったため怖ろしいものを見てしまった気持ちになって、茫然と叔父を眺めていた。


「兄上にはすまないと思っている。でも君しかいなかったんだ」


「ねえ叔父様、みんな悲しそうな顔をしているけど、ノルテナフスってそんなに大変なところなの?」


「あそこに住むこと自体は難しいことではないんだ。ただ我が一族がノルテナフスに赴くということが大変なことなのさ」


 叔父の言うことがさっぱり分からない。周りくどい言い方に逆にいらいらした気持ちになった。むっとして叔父の目を見る。


「なにも心配することはない。難しいことは我々大人が解決するから」叔父は唇をぐっと引き締め強い調子で言った。


「わかったわ。なんとか頑張ってみるわ」他に言いたいことがあったけれど、叔父の勢いに押されてしまって、私は開きかけた口を閉じた。


 我が家の難しい事情はよく分からなかったけれど、これでともかく私は退学以外の方法で「そらみつ」を退場することができると思うと私はほっと救われたような気持ちになった。




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