第45話 憑き落とし

 世の中には色々な仕事がある。サービス業だったり技術職だったり研究職だったりさまざまだ。俺はそれらに従事する人すべてが職人だと思っている。ただ、一言で職人と言ってしまうと、伝統工芸の分野だったり特殊技能を持った人のことを指すことが多いが、個人的にはサービス業だろうが、技術職だろうがその職に従事して成果を出しているのであればそれは職人と言っていいのではないかと勝手に考えている。


 とまぁ初っ端から何の話だよと思われているかもしれないが、今回お話する内容は美容師さんにまつわるものだ。美容師さんまたは理容師さんにはみなさんも必ず一度は世話になったことがあるはずだ。早い人だと赤ちゃんの髪を筆にする赤ちゃん筆(または胎毛筆)を作ってもらったりした方もいるだろう。もしかしたらしばらくは家族の誰かに髪を切ってもらっていたりしていたのかもしれない。けれど成長してからは自分の好みの店を探したり、馴染みの店ずっと切ってもらっていたりしていると思う。


 そんな我々の生活に欠かせない美容師さん(理容師さんもいらっしゃいますが今回は美容師で統一します)だが中にはちょっと不可思議な体験をなさることもあるとかなんとか。ということでそんな美容師さんの体験談をお聞きいただこうと思う。



 これは俺がかなり昔に聞いたんだったか雑誌の投稿欄で見たんだったか覚えていないが、ある美容師さんが体験した身も凍る体験談だ。


 その美容師さん──田中さんとしようか。田中さんは若いながらも自分の店を持っていて腕前もそうだが人当たりもいいため、それなりに繁盛していたそうだ。そんなある日、店に一人の客が来店した。その客は田中さんもよく知っている方でちょっと離れたところにある同業者の男性だった。同業者というと商売敵のようにも聞こえるが、その方は田中さんがお店を開くと際にいろいろ手助けしてくれたことがあり一応同業他社ではあるものの、それなりに親交はあったそうだ。


 その男性はいつも美容師らしく派手目な感じだったのだが、今店に訪れた男性はそんな姿とは正反対で、髪はボサボサでずっと洗っていないのかフケや皮脂でひどいことになっていた。田中さんはそんな姿に思わずギョッとしたものの、とりあえずほかにお客さんもいなかったため店の中に出迎えた。

「どうしたんです? その髪」


 田中さんが尋ねると男性はイスに座るなりこう言った。


「俺さ……髪を洗えないんだよ」


 笑っているのか泣いているのかどちらとも取れるような複雑な面持ちで男性は顔をクシャクシャにしていた。田中さんが知る限り、この男性はいつも会うたびにヘアスタイルだったりカラーリングが違っているくらいには髪をいじっていたはずだ。それがなんでまた。


「腕、怪我でもされたんですか?」


 とりあえず思いついた疑問をぶつけてみる。すると男性は「そうじゃないんだ」と答えた。


「視線……っていうのかな。髪を洗おうとするとさ誰かにじぃーっと見られてる気がして、それ以来髪を洗えなくなったんだ」


 男性の言葉に田中さんはああなるほどと思った。田中さんにも思い当たる節はあった。誰でも一度はそんな経験をしたことがあるかもしれないが、シャンプーをしていると誰かに見られているんじゃないかという錯覚に陥ることがある。もちろんそれは錯覚以外のなにものでもないので、本当に誰かに見られているということはない。しかし、男性の話は田中さんが思っていたのとは違っていた。


「いつだったかな。俺の店にさ一人の客が来たんだ。その客ってのが服装はちゃんとしてるのに髪だけがひどいことになっていて、首から上だけがホームレスみたいになってたんだよ。それ見たときに嫌な感じがしたんだけどさ、他に人もいなかったからまぁいいかって思って中に入れたんだ。そしたらその客が店に入るなり髪を洗ってほしいって言い出したんだ。確かにカットするにしてもそんな状態じゃまともに切れるわけないから、一度シャンプーしてからだなって思ってたから何も考えずにいいですよって言ったんだよ。そしたらその客はすごい嬉しそうにありがとうございますありがとうございますって何度も言うわけ。つくづく変わった客だなって思ってたんだけど、とりあえずシャンプーしてみたんだ。そしたら結構な汚れが溜まってたみたいで三回ぐらいシャンプーしなきゃいけなかった。丁寧に髪を洗うとその客は満足したのかカットもせずに帰っていった。なんだったんだ? って思ってたんだけどそれからかシャンプー出来なくなったのって」

「やっぱりそのお客さんの髪がひどすぎて手を痛めたんじゃないんですか?」

「いや、そうじゃないんだよ。人の髪は洗えるんだよ。俺の髪だけが洗えないんだ。自分の髪を洗おうとすると誰かに見られてる気がして……俺こんなんじゃ仕事ならないからさ、頼むよ。俺の髪を洗ってくれよ」


 髪を洗うくらいならと思っていた田中さんだったが、そんな話を聞いてしまうと髪を洗うことに若干の抵抗を感じていた。しかし店を開く際にいろいろ協力してもらった恩もあるためそれを受け入れることに。


 男性の髪を洗う際に顔が濡れないようにタオルを覆うのだが、目を閉じるのが怖いという理由から目を開けたままシャンプーをすることに。まれにそういう方もいらっしゃるため気にしないようにしていたが、男性の髪の状態や先ほどの話を思い出してしまいいつもより時間がかかった。


 どれくらい洗っていなかったのかわからないが、びっしりと皮脂が蓄積した髪はモタっとした重さがあり、結構な量のシャンプーを使わないとしっかり泡立たないくらいだった。丁寧に指先を使って洗うと、


 ボチャ。


 となにか大きな物が落ちる音がした。それだけ汚れが溜まっていたんだろうと田中さんは気にしなかった。何度かにわけて髪を洗うと男性の髪はようやく元の軽さを取り戻していた。


 シャンプーを終えて軽く髪を整えると男性はスッキリした表情でお礼を言って帰っていった。田中さんは男性の話していたことが気になっていたが、大したことはないだろうと思っていた。


 ──この時は。


 その日の夜営業を終えてシャワーを浴びていると、誰かに見られている気がした。きっと昼間に聞いたあの話のせいだろうと思った。なので気にしないようにしていたが、どうしても気になってしょうがない。


 気にしすぎだ。自分にそう言い聞かせて髪を洗おうとする。すると、背後に気配を感じた。思わず田中さんは背後を振り返った。もちろん誰もいるはずはない。いや、ビビりすぎだろ俺。もう一度自分に言い聞かせると目を閉じる。やはり背後に誰かが立っているそんな気がしてたまらない。それでも田中さんは恐怖と戦いながら自分の髪を洗った。すると、


 ボチャ。


 何かが落ちる音がした。慌てて目を開けると大きな髪の塊みたいなものがするすると排水口に流れていくのが見えた。それ以降は目を閉じても視線を感じることはなくなったそうだ。


 結局のところなにが自身の身に起きていたのかわからないが、何かが憑いていたのは間違いないだろうとのこと。あの黒い髪の塊のようなものがなんだったのか、それすらもわからないがもしかしたら誰かの髪に今も取り憑いているのかもしれないということでこの話は締めくくられていた。


 髪を洗う際に視線を感じることがあったら……考えただけでも恐ろしい話だ。


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