電話
信治の意識がないと千代子から連絡は修平に届かなかった。昼の会議で携帯はマナーモード。今夜は天音と約束があって、気怠いやら楽しみな気持ちが混雑する。こないだ、黒河に愛人にEDは変だと言われてしまった修平はどうやって天音の機嫌をとろうかとしか頭にない。ポケットの中で震える携帯に気づくことはない。
歩美は千代子がどんなに電話をしても修平が出ないことに動揺していた。千代子は救急処置室の前で震えてどうにもならない。私が確りしないと。いつかやって来るとわかっていたこの日が遂に来てしまった。こうなれば修平はきっと来ない。千紗の熱けいれんの時もそうだった。あの人は家族の一大事に、いつも居ない。出産だって立ち会ってくれたのは千代子だった。
「あゆちゃん!息吐いて!」「赤ちゃん見えてるよ!」「この子も頑張ってる!痛いけどもう少しだから!」
自分の出産を思い出したのだろう。涙を流し、ぎゅうぎゅうと歩美の手を握る。本当の母のようだった。この人から生まれたかった、そう思った。ぎゃあ、うわあ、と千紗が産声をあげ二人で泣きながら抱き合った。
「私をおばあちゃんにしてくれてありがとう。頑張ったねえ、頑張った、頑張った。」
汗で湿った歩美の髪を手で梳きながら、何度も何度も頑張ったと呟いた。
「生まれたか!?」
制止する看護師を振り払って、信治が分娩室に入ってきた。かわいいなあ、かわいいなあ、なんでこんなにかわいいのかなあ、と看護師が抱える赤ん坊を見て嬉しそうに笑った。それから一時間以上も経ってから修平は病院に着いた。人生の一大事なのに、出産は命がけなのよ、こんなに医療が進歩しても分娩中に亡くならない保証はないのに、と千代子にこっぴどく怒られていた。
あの時の千代子は、いつものおっとりした母ではなかった。今日は今日で、いつもの千代子ではない。頼りは修平だけなのに。
そのとき、歩美の携帯が震える。
「お母さん、修平さんからですよ、きっと、」
千代子を落ち着かせるように電話に出る。
「はい、」
「もしもし、さくら幼稚園ですが。千紗ちゃんのお母さんでしょうか?」
電話番号を確認もせず、かかってきた電話に茫然とした。
「お迎えなのですが、」
気付くともう夕日が沈んでいた。修平は行っていない。けれど、ここに一人に千代子を置き去りにすることはできない。千代子から数歩距離を取って電話を続けてる。
「実は父が、突然意識がなくなってしまって、母だけをここに残しておけなくて。」
「誰か身寄りは?」
「誰かに向かってもらうようにします。遅くなってしまうかもしれませんが、すみません。」
「こういう時ですから、」
電話の向こうではどう答えていはいいかわからない先生の姿が見えてくるようだ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。電話が繋がったままでキャッチが入る。折り返し掛けなおしますので、すみません、と半ば投げやりに電話を切り、キャッチに出る。
「もしもし?いまどこに、」
「ごめん、また俺。」
「マスター、」
「なんかヤバそうだったから心配になって。俺にできることない?」
「マスター、お願いがあるの。助けてくれない?もう、どうしていいか分からなくて、」
「落ち着いて。深呼吸。」
峯田の声に歩美は少し冷静さを取り戻した。
「千紗は会ったことあるよね?」
「うん。」
「顔覚えてる?写真いる?」
「いらない。千紗ちゃんなら見たら分かる。」
「今すぐさくら幼稚園に行って、私の兄だってことにして千紗を迎えに行ってくれない?先生には私から言うから。」
それからの歩美の行動は嫁として成すべきことをしていた。幼稚園に連絡し、兄が迎えにいってくれることになったと峯田の名前を告げ、修平に「もう迎えに行ったので千紗のお迎えは要りません」とメッセージを送った。
多数の着信履歴と「お父さんが倒れたから市民病院に来て」という千代子の留守電に、歩美からの「もう迎えに行ったので千紗のお迎えは要りません」という連絡に修平はぞっとした。
親父が亡くなった。いやまだ倒れたとしか聞いていない。あんなのんびりそうな人がぽっと死ぬはずがない。何より歩美の連絡が一番背筋を凍らせた。敬語で、句読点のない文章は大抵怒っている時か怒りを通り越し呆れている時。駅で落ち合った黒河が助手席から画面を覗き込む。
「愛妻家ってより尻に敷かれてるよね。」
「親父が、倒れたらしいんだ、」
「また?」
「病院へ行く、」
「何言ってるの?ちょっと、」
「降りてくれないか、」
「こないだから何かおかしくない?」
「じゃあ、もう終わりにしよう。」
誰かの親になった記憶もないし、甥や姪でもない。けれど峯田の頭の中は忙しく動いていた。東山に電話をかけ、急用だから今すぐ店に来てくれとだけ言い、施錠をして車に乗り込む。
「四才はチャイルドシート義務なんだっけ、でも持ってないよ、俺独身だし、」
誰も答えてはくれない独り言が車内に響く。
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