別れ

「遅くなってごめん!」

 息を切らし、汗ばむ季節でもないのに額からだくだくと汗を流しながら彼はやってきた。千紗の手を繋いで。

「マスター、」

 靴音、息づかい、声色、香り。修平ではないのは何となく察していた歩美だったが、いざ目の前にすると気が遠くなる。

「ママ!」

 千紗が峯田の手を離し、歩美の膝の辺りに抱きついた。

「おばあちゃんのところへ行ってて、ね?」

「わかった!」

 小走りに緊急処置室の前に座る千代子の元へと駆ける千紗を見送ってから峯田は口を開いた。

「お父さんは、」

「ごめん、マスター、店があるのに、」

「お父さんは、」

「だめ、かもしれない、」

「助かる可能性が、」

 言い終わる前に、歩美が首を横に振る。

「もう、だめ、なの、」

「まだわかんないじゃん、」

「病院で、緊急搬送される人を、沢山見てる。助かる人か、そうじゃないかくらい、分かるよ、」

 自分の方が年上な筈なのに彼女は色んなものを見ている。見たくないことも見て、考えたくないことも考えている。強く逞しく見えるけど、脆い。今だって壊れそうだ。

「マスター、ごめん。ありがとう、ほんとうに、」

「ねえ、俺にできること何か無いかな。」

「お迎え。行ってくれただけで有り難かったよ、」

「いつも千紗ちゃんのお迎えの時間に追われてたからね。」

 沈黙。ジョーヌではこんな沈黙さえ心地よいのに、ここでは視線が右に左に移動する。そんな沈黙を破ったのは千紗だった。

「ねえ、ママ、」

「恵美子、その方はお付き合いしてる人?」

「お母さん?」

「ねえ、この子はだあれ?」

 歩美のことは娘の恵美子と勘違いしており、千紗のことも理解していなかった。考えることをやめたんだ、歩美は直ぐ察した。

「恵美子、家に帰ろう。お父さんが待ってる。」

「あの、」

「だめよ、」

 信治が意識がないこと、最悪の事態を考えた千代子は家に信治が家に居ると都合の良い仮説を作った。それを否定しようとした峯田を歩美が制す。

「お母さん、お父さんが少し体調が良くないみたいなの。今先生が診てくれてるから。ちょっと待ってよう?」

「そうね、お父さん大丈夫かしら、」

「分からないけど、お父さんとは、しばらく会えなくなるかも、しれないね、」

 震える声、丸くなった背中。歩美は涙を堪えているのが峯田はわかった。千代子を安心させようと笑顔を貼り付けて。守りたい。抱き締めたい。俺には無理かもしれないけど貴方をもっと幸せにできる人は他に居るよ。

 スッと峯田のシャツを千紗が引っ張り、小さな声で呟いた。

「ママね、ずっとがんばってるの。けど、パパはしらんぷりしてるの。」

「そう、なの?」

 最近の四才は賢いなあ、俺の四才なんてもっとボンヤリしてたのになあ、と峯田は自分が千紗と同じ頃のことを思い出していた。

「ママ、ワガママだけど、がまんばっかりしてる。」

「ママ我が儘なの?」

「あかいくるまはママのワガママのかたまりなんだって。」

「あの車が?」

「うん。いつもそう言ってるよ。」

 確かに子育てするのにツーシーターのオープンカーは向いているかと聞かれたら、なかなか頷けない。でもそれだけが我が儘なんて、と思っていた時、処置室のランプが消えた。

「手をつくしたのですが、搬送される間に心肺が止まっていて、」

「ご尽力、ありがとうございます、」

 堪えていた涙が歩美の頬を伝った。何本も筋を作って。

「ご対面されますか?」

「はい、」

「じゃあ俺はこれで。」

「あっ、マスター、」

 歩美が峯田を追いかけようとしたが、なんだかそれもおかしい気がした。

「マスター、ありがとう、ほんとに」

 泣きじゃくったままで、笑顔をみせた。

「またコーヒー飲みに来てよ、」

 うん、と答え、千代子と千紗に中に入るように促す。来た道を戻る峯田。途中、修平とすれ違っても気付きはしなかった。


 信治の横たわるベッドの横に立った歩美は涙が止まらなかった。

「お父さん、ありがとう、お父さん。お父さん、起きてよ、またすいとん作るから。お父さん、」

 右手を握り、何度もお父さん、お父さんと信治を連呼する。

「恵美子は心配しすぎよ、寝てるだけなのに、もう、」

 千代子は未だ歩美を恵美子だと思っているが、歩美は否定せず続けた。

「けど、お父さんが、」

「面倒なことが嫌いな貴方がそんなに心配するなんて。不思議なこともあるものね。」

 ハンカチで歩美の涙を拭きながら、髪を手で梳きながら、大丈夫、心配しすぎよ、と呟く。それは千紗が生まれたあの日と同じ手つきだった。



 

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