カフェ・ド・ジョーヌ
歩美が修平が終業後に浮気してるだろうと真っ先に相談したのは、行きつけの喫茶店のマスターだった。カフェ・ド・ジョーヌ、という店の名前はマスターの峯田怜央が乗っている車が黄色だったからと何となく付けた名前だった。
「聞いてよ、マスター。」
夜はマスターの友人がバーとして店を開ける。喫茶店の閉店準備をしながらマスターは歩美の声に返事をした。
「今日は何の話?千紗ちゃんとの親子喧嘩か、ママ友の愚痴か?職場のオバサンと喧嘩した話?ん?」
「いや、主人がね、」
「あの優しそうなご主人?何かあった?」
「浮気、してるみたいで、」
「待って、店閉める。」
峯田はOPENと書かれたボードを慌ててひっくり返して、CLOSEDを表にして少し早足に戻って来る。
「で、浮気って、物証は?」
「退勤して会社にいないの。残業せず帰ったことになってるって。」
「たまたまじゃねーの?」
「その週は残業時間超過しすぎて、全員定時らしいんだよね。」
「毎日残業だったんだ、ご主人。」
「うん。たまたまかもしれないけど、ね」
「自分は浮気だと思ってる?」
「うん。」
「何を根拠に?」
「女の勘?」
「いっつも化粧もなんもして無いのに、よく女の勘なんて言えたよな。」
場が暗くならないように言ったつもりの峯田だったが、それは逆に歩美の胸をずんと刺した。
「いや、分かってるよ、分ってるけどさ、」
「それ知ったのいつ?」
「一か月くらい前かな、千紗がね熱けいれん起こして。携帯にかけたら繋がらなくて。会社にかけたら退社してますよって。」
「だから最近来なかったんだ、何かあったのかとは思ってたけど想像以上だったな。」
「マスターはさ、同い年じゃん?男じゃん?どう思う?純粋に。」
「ご主人と年は一緒だけど、俺は独り身、彼女も無し、勿論子供もいないから分かんないけど、」
「だよね。」
「俺なら気持ちが移った時点で言っちゃう。出来るだけ、そうならないようにはするけど、なる時あんじゃん?」
「独身ならね、分からなくもないよ。言いたいこと分かる。」
「でもさ、結婚してるなら話は別でしょ?絶対とは言い切れないけど、気持ちが移らないようにするし、極力は女の人に必要以上近づかない。結婚してなかったとして、彼女が居ても。」
「私もそうなんだなって思ってたけど、何か違うみたい。」
「ねえ、唯川さんは今幸せ?旦那の浮気知ったところでさ、」
歩美の耳には「唯川さん」と呼ばれた自分が、何か別のものに感じた。
「唯川さん?ねえってば。歩美さん?」
「えっ、ごめん。なんだっけ?」
「だからさ、幸せ?浮気されても。」
「わかんない。今までずっと幸せとか考えたことなかった。」
「俺ならさ、そんな顔させないよ?」
空になったカップを見つめ続ける歩美に峯田は言った。いつもは頑固そうな目元がほんの一瞬、穏やかになる。
「とか言うとモテるんだよねえ、きっと。」
ははは、と笑う峯田につられて歩美もようやくカップから視線を上げ笑った。
「何その冗談。笑えるんだけど。」
二人で笑っているうちにバーの開店準備で峯田の友人の東山が顔を出した。
「あ、歩美さん、久しぶりっす。今日もいいバイクにいい女っすね。」
「こら。相手は人妻だぞ、ヒガシ。」
「おーおー、分かってるよ。でもアレだよなあ、人妻ってなびかないからこそ燃えるんだよなあ。」
「こら。二回目だぞ、お前。」
中学からの腐れ縁の二人が仲が良いのは、話し方から歩美も察していた。
「準備の邪魔になっちゃうから、もう行くね。」
小銭をテーブルに置いて歩美は店を出た。峯田はぼんやりとしたまま、そのカップを片付けられなかった。
「なあ、怜央。さっきさ、」
「聞いたのか?」
「聞くつもりはなかったんだけどさ。わりい。」
「いや、いいよ。軽い冗談だし。」
「マジだったろ、あれ。」
「そんなことねーって。ただの欲求不満だよ。」
「おい、怜央。俺ら何年の付き合いだと思ってんだよ。冗談と本気の違いくらい声だけで分かるよ。」
「分かるなら察しろよ。」
じゃあ、と峯田は裏口を開けた。まだそこにはバイクに跨り、誰かと電話をする歩美の姿があった。声をかけようと迷ってるうちにセルを回し、アクセルを吹かし走り去ってしまう。
「やっぱり、ひとりか。」
峯田のため息が響いた。
一人残された東山は狼狽えていた。
「あの怜央が、人妻に?」
学生時代、峯田は比較的モテていた。交際するのも清楚系で、かわいいとか美人で名が知られた子だったし、ちょっかいを出してくる先輩も美形が多かった。そんな怜央がバイクとオープンカーを乗りまわすような化粧っ気のない人妻に。
それも旦那に浮気されて傷心の相手に、冗談っぽく告白した。あの人は本気と捉えているんだろうか。何年かぶりに気になる相手ができた友人の恋を応援したい気持ちはあったが相手を考えると、背中を押せない東山だった。
「なびかないからこそ燃えるのか?」
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