それぞれの嘘
修平の嘘は、妻以外に女が居ることだった。同僚の黒河 天音と交際していた。黒河は修平が結婚しているのも、妻が誰かも知っていた。昼間、オフィスでは「唯川さん」「黒河さん」と何食わぬ顔で働き、定時になると乗り換えまでして二駅先で落ち合った。車通勤の修平はいつも先回りして黒河を待った。
妻には管理職になったから仕事が忙しい、おまけに残業代までつかないと悪態をついてまで、黒河との時間を作っていた。
ほんの出来心、ちょっとした火遊び。結婚し、妊娠し、育児に介護、変わってしまった妻。出会った頃の歩美にそっくりな黒河と過ごして、独身時代を思い出す。でも家に帰れば妻が一番、可愛い娘もいる。それくらいのつもりだった。
時にはふらりとレストランでディナーをご馳走したり、会社から離れた百貨店で買い物をしたり、黒河の部屋に立ち寄ったり。黒河と落ち合わずにパチンコに行く日だってあるし、コンビニで時間を潰すだけの日もある。早く帰っても、歩美は忙しそうにしているし、何を手伝えばいいか分からない。スマートフォンで動画を見たり、漫画を読んだり、ゲームをして時間を潰して、大体いつもくらいの時間に帰ると連絡を入れる。歩美が一息ついたところに帰宅すれば、千紗に会話を邪魔されることもない。歩美の小言に曖昧な相槌を打っていれば静かになる。全て自分の思い通り。その日の気分で歩美を抱いたり、誘ってきた歩美を拒んだりと、自由そのもの。一人暮らしとさほど変わらない。
歩美の嘘は、修平の嘘に気付きながらも何も知らない妻を演じることだった。一度、娘が熱けいれんを起こし、修平に連絡した。繋がらなかった。何度もかけ直してやっと繋がったものの、通話時間一秒で終話された。救急車で搬送された病院で待つ間、修平の会社に電話をし、事が明るみになったのだ。
「ビー・トレディの総務課の村上です。」
電話に出たのは、総務の村上と名乗る男だった。
「すみません、営業課の唯川の妻なんですが、緊急なので夫に変わって頂けますか?」
「唯川さんですか?暫くお待ちくださいね。」
何分間かオルゴールの保留音を聞き終え、衝撃の事実を聞く。
「唯川さんは定時で帰っていますね。」
時計をちらりと見れば既に二十時だった。
「席にも居りませんし、パソコンで確認したところ、ICカードを使って退社したようです。」
そんなはずは、という言葉を歩美は飲み込んだ。
「今会社に残ってる営業課の者はおりません。今月の中頃に規定残業が超過して、このところは皆定時退社になっているはずですので。」
定時退社の言葉を疑った。毎日残業続きで皆クタクタだと修平から聞いていたからだった。わかりました、私からもう一度電話してみますので、そう言って電話を切った。
もう一度電話しても修平は電話に出なかった。変な胸騒ぎだけがして、もう一度会社に電話をかけると同じ村上が出た。
「もしもし?唯川の妻です。先ほどはすみません。夫と連絡がついたもので、」
「そうですか!緊急と言っていたのに要件を聞き忘れていたので会社からかけるのが気が引けたので安心しました。」
連絡がついたなんて嘘だったが、村上は自分のことのように喜び安心している。
この人は独身なのか既婚なのか、子供はいるんだろうか。もし、結婚もして子供もいるなら、いいお父さんなのだろう。でも、残業をしているあたり独身なのだろう。
「あの、大変申し訳ないのですが、会社に電話をしたこと、黙っていてもらえないですか?夫が知ったら気にすると思うので、」
「構いませんよ、社内には私しか残ってませんので。」
快諾してくれた村上だったが、そのまま続けた。
「でも、いいんですか?会社に電話をかけるほどの緊急の用事だったのに。」
「緊急は緊急だったんですが、連絡はつきましたし、そんなことで何度も電話したのかと言われてしまって。子供のことだったので、少し動揺してしまっていて、」
「それならいいんですが、また困ったことがあれば会社にも一報下さい。」
「お心遣いありがとうございます。夜分に何度もすみません。では、」
物分かりがいいと思った村上は鋭い人だったのだと歩美は察した。連絡が繋がったという嘘も見抜いたようだった。
どうか、誰にも言わないで。言ってしまえば、定時退社してから何をしていたのか、家族の緊急事態に何処で何をしていたのか、社内で話題になって、いつか私の耳にも入るようになる。後ろめたい何かがあるなら、確り墓場まで持って行けばいいのにと歩美は奥歯を噛んだ。
それから歩美は体調を崩しがちになった。娘の千紗を出産する前は丈夫だけが取り柄だった。以前は風邪も滅多にひかなかった歩美が毎年、いや季節の変わり目の度に体調を崩していたが、遂には仕事を終えて家に帰って夕拵えをするだけでクタクタになる日は週に一度や二度ではなかった。疲れが溜まっているんだと出勤日数を減らしてもみたが結果は同じで、休みで一日家にいることの方がぐったりと疲れ、何かに怯えている自分に気付く。そう、あの日から。
色々と検査をしても異常はなく、精神的なものだと言われ、あるクリニックを紹介された。その日のうちに病院にかかり、産後鬱が尾を引いた鬱状態だと診断された。カウンセリングを受け、精神安定剤と睡眠導入剤を処方してもらい、修平には勿論、千代子にも隠れてこっそり飲んだ。仕事に行く時と同じ時間に家を出て、月に一度か二度通院し、いつもの時間に帰る。千代子に相談すればきっと親身になってくれただろう。けれど言ってはいけない気がして、秘密を嘘で隠した。
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