父と母
歩美の両親はとても仲が良いわけでも悪いわけでもなかった。父は本当に子煩悩だったし、母はお世辞にもいい母親ではなかった。専業主婦だったが家事は全くダメで、よく祖父母がやってきては、母の代わりに祖母が家事をひとしおやって行った。祖父と一緒に遊んで、母の帰りを待った。祖父母が来る日は、彼女はやたらとめかしこんで出掛けた。両手いっぱいに紙袋をぶら下げ、笑顔だった。美人ではなかったので浮気は考えなかったが、小学校に上がる前の歩美が見ても散財してきたのは一目瞭然だった。時々、父も怒っていたが気にすることはなかった。
歩美の母が祖父母と会う日に散財するのは中学に上がっても、高校に進学しても続いた。そのうち、祖父母が出掛けられなくなると歩美が自転車で祖父母の家に通った。次第に自転車が原動式自転車に変わり、バイクに変わっても、車を乗るようになっても散財は変わらなかった。修平と知り合って、結婚の話が出ても、である。自分の事は棚に上げ、歩美には散財しすぎだと叱責した。
父は母の散財の為に働いてるのではと歩美は思ったりもした。朝早く、日の出ないうちから出掛け、夜遅くに帰ってきた。何時間も大型のトラックを運転し、汚れた作業服を洗うのが歩美の日課で、夏休みや長い休みには時々父のトラックの助手席に乗り、出かけるのが好きだった。歩美の父は車が好きで三年おきに新車に乗り替えた。休みの日には少しお洒落をして年齢を感じさせず、少し大人びた顔つきの歩美と並ぶと夫婦とよく間違われるのも嫌いではない。
修平の父と母は歩美から見るに、とても良い関係に思えた。多くを語らない父の信治と、おしゃべりが好きで気さくな母の千代子。人柄の良さそうな二人。こんな夫婦になりたい、そう思って結婚を決めた。
一方、修平は歩美の家庭が変わってるのを目の当たりにして幸せにしようと強く思った。歩美の母は修平の目から見ても異様だった。廃墟のような寂れた家で、駐車場は家から離れている。車は高級そうな真新しいセダン、母は高そう服を着て、物が溢れかえった部屋を見た瞬間に助けてやらないとコイツもダメになる。現に歩美だって、年頃なのにバイクを乗りまわし、更に車も一台所有しているのに実家から離れていない。周りだって親元を離れマンションやアパートを借りているのに、独り暮らしに憧れる様子はない。父を慕っていたのはよく知っていたが、ここまで荒んだ家に住んでいても尚独り暮らしを選ばないのは、父を愛しているからではないかと勘繰ったりもした。
修平の父は寡黙で、酒でも入らないと本音を言わなかった。四兄弟で子育ては殆んど母任せ。父は代々続く農家の家系でいつも泥にまみれて帰ってきた。庭先で長靴の泥を水で軽く流してから、玄関で作業着を脱ぎ、真横の風呂に直行。父との思い出といえば、野菜を市場へ卸しに連れて行ってもらったことだった。母は弟が保育園に入ると同時に働きに出る。朝は農業、朝のうちに作業を終わらせパートへ出掛けた。元々呉服屋の娘だったのに、親同士が決めた見合いであっさりと結婚を決め農家になった母を不憫に思ったことも無かったとは言えない。けれど両親の努力で家は続いている。反抗期では「頑固オヤジ」だの「ババア」だの言っていたが今では頭が下がるばかり。自分もいつか家庭を持ったら、二人のような夫婦になりたい。幼少期の自分のように寂しい思いはさせないと思っていた修平だった。
歩美の家を後にして、修平は口を開く。
「なあ、一緒に暮らさないか。」
「プロポーズもされてないのに?」
修平は口ごもってしまう。何しろ今はフリーターで収入も不安定、本当に彼女を幸せにしてやれるんだろうか。
「そろそろ転職しようと思ってさ、」
「今度は何の仕事?飲食店?鳶?」
「いや会社員。」
「どうして?そんなこと言うなんて珍しい。」
「安定した仕事に就こうと思って。」
「ふーん。」
「そしたらさ、引っ越すから一緒に暮らそう?」
「そうだね、」
歩美の視線がさ迷う意味が修平には分からなかった。修平にとっては、安定した仕事に就いたら一緒に暮らそうという言葉が精一杯のプロポーズだった。結婚して温かい家庭を、なんて言葉は無責任すぎて言えなかった。歩美が一番聞きたかった言葉が足りなかったのである。
その場しのぎに近くてもいい、未来として仮定でも構わないから結婚という言葉が欲しかった歩美は生返事でぼんやりするしかなかった。自分と結婚する未来を想像していないようで、もの悲しく涙を堪えるのに必死だった。
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