第10話やまない喧嘩と先生の教え
翌朝、七時半といういつもより早く起きて登校し、誰もいない教室に鞄を置いた。
ちらほらと鞄が置いてある席はあるが、おそらく置いて帰ったり部活の早練で来たクラスメイトのものだろう。
こんな時間に登校する事がないので、人がいない教室に違和感を感じて教室を後にした。
今日から服装指導を始める訳だが、昨日の翠との喧嘩もあってか、少し校門に行くのを躊躇う。間違いなく翠の俺に対する好感度は下がってしまうだろう。
俺はスマホを開いて、昨日から翠に既読スルーされているラインのトーク画面を開いた。まあ、開いたところで何か書かれているわけではないけど。
本当は、【もう怒ってないから】という返信が来ますようにと淡い期待をしていたが、淡い期待は淡いまま消えてしまった。
俺はブルーな気持ちを引きずって、校門に向かって行った。
校門にはもうすでに真白がいた。俺に気付いた真白が、無表情のまま手をぶんぶんと降った。
「蒼兄、こっちです。おはようございます」
「おはよう、真白。他の人は?」
「副会長は裏門の方で挨拶をしています。春野さんも裏門を依頼しました。正門は私と蒼兄の二人きりでします」
ほんの少しだけ頬を赤らめて、二人きりを強調しながら真白は現状説明をする。普段の真白は無表情なのに、気持ちだらしなく頬が緩んで見えた。
え、でもだったら俺裏門がいいんだけど。翠と鉢合わせしなくていいじゃん。と、明らかに個人的な要求を口に出そうとして飲み込んだ。
危ない危ない。仕事に個人的意見を混ぜてはいけないな。
「成る程な。了解。作業については、服装が適切でない場合は注意したらいいんだよな」
「はい。いつも私が翠にしてる事をして頂いたらいいですよ」
真白のしている事をしたら、ますます翠の好感度下がって、また話すのをやめられる。と、真白の作業説明を聞きながら心の中でぼやく。
せっかく話せるようになったのに、嫌われたら元も子もない。
まあ、喧嘩しない程度に程々にだな。昨日の真白の作業を思い出しながら、あそこまでやってしまうとまずいよな。と、考えて、あれこれ嫌われない方法を考え始めた。
「さて、来始めましたよ。挨拶をお願いしますね。おはようございます!」
「あ、生徒会長おはよー」
登校時間のピークを迎え、続々と現れる生徒達。通り過ぎていく人達に真白は挨拶とたまに指導をしている。
俺もそれに習って同じような事をしているが、これがなかなか難しい。ちょっとシャツ出てるよ。とか言うとジロリと睨まれたりするのがちょっと不本意だ。
こんな事を毎日して大変だな。と、真白を見てちょっぴり尊敬の念を抱いた。
真白は臆する事なく服装の乱れには注意を。きちんとしている人には挨拶をして、生徒達は真白に挨拶を返し、中には手を振ったりお疲れ様と声をかけたりしていた。
指導って嫌われ役だと思ってただけに、ちゃんと慕われてる真白を見て少しだけ安心した。
「蒼司さん、何見てるんですか?」
「真白が生徒会長として凛として作業して、慕われてたのが感慨深くてな。なんだかんだで従姉妹の真白の印象が強いからさ」
「むう、私にどんな印象を持ってたんですか?」
「そうだな。めちゃくちゃに甘えたがりで、一人ではなにも出来なかった真逆の真白が頭の片隅にいるかな」
「……今でも甘えたがりですよ。今回も蒼に……、蒼司さんに甘えましたし」
「はは。たまにならいいぞ」
「言いましたね。今の言葉、忘れませんよ」
なにやら語気荒く、真白が俺に甘えてもいいという了承に食いついた。
なんだ、まだまだ甘えたいのか。なんだかんだで小学校の頃から変わってない部分もあるのだなあと、逆に微笑ましくなった。
真白は口の端っこの口角をほんの少しだけ上げるという器用な笑みを浮かべながら、また服装指導と挨拶を行なっていた。ご機嫌そうでなにより。
「おはよー、蒼ちゃん」
「おわっ! 礼、危ねえ!」
真白を気にかけて油断していた俺の背中に、強い衝撃が走る。俺は思わず前のめりに倒れそうになって、思わず声が漏れた。
そしてすかさず振り向いて礼に注意すると、礼はケラケラと俺を笑って指差していた。ダメだこいつ。反省してない。
「蒼ちゃんが服装指導とか。似合わねえ」
「失礼な。ちゃんと指導するぞ。ほら、お前もネクタイ上まで閉めろ。ボタンも一番上まで止めろ」
「うわ、蒼ちゃんが指導出来るなんて。成長が嬉しい。お祝いに赤飯炊いて待ってるわ」
礼は嬉しそうにボタンを止めてネクタイを締め直す。注意されながら喜ぶこいつはマゾだろう。
礼は赤飯を炊くと言って、笑いながら校舎の方へと歩いていった。礼は本当適当人間だな。適当すぎる人間でもいいくらいだ。
「おはようございます」
「あ、はい、おは……え?」
礼を指導中に不意に挨拶が俺に向けて発される。俺は声の方向に振り向いて挨拶を言う途中、言葉に詰まった。
その視線の先には、翠がブスッとした表情で立っていた。
いや、翠がいるだけではそれほど驚かなかったかもしれない。しかしだ。翠の服装が何の問題もないから驚きを隠せないでいた。
リボンに緩みはなく、ボタンも全て止まり、スカートも短くない。模範的な服装の生徒で今の翠を紹介しても何の問題もないだろう。
「なに、ジロジロ見て。視姦? やめてよね、妹に欲情するなんて」
「人聞きの悪い事を言うのはやめろ。驚いただけだ。その、服装ちゃんとしてるとは思わなかった」
「もう、何言ってるの。改心しただけだよ。お兄に説得されたからね。そこの生徒会長の言葉では反省できなかったけど」
翠は何を言ってるんだろう。俺はした覚えのない説得をしていたらしく、翠はそれを受けて改心したんだそうだ。夢でも見てたんじゃない?
でも、翠の目の威圧感に肯定も否定も出来ない。例えるなら、お前黙って聞いとけよ。とそのニッコリ笑った翠の笑顔の奥から発せられているからだ。
生徒達はほんの少しだけざわついており、『あの皆野を改心させただと?』だの、『生徒会長よりすごいじゃん』だの、『清楚になった皆野ちゃん可愛いよはあはあ』だの好き勝手言う声が聞こえてきた。
ちょっと待て最後の奴。お前は発言が危ないから翠の半径二メートルには近寄るな。
……いや、しかしだ。聞こえてきた内容で翠の意図が見えた。真白下げ、俺上げをしようとしているのが魂胆なんだろう。
現に生徒会長よりすごいと思ってる生徒もいたし。なんと言うか、翠の真白に対する執念がすごいなあ。
ちらりと真白を見やると、真白は無表情のまま拍手を翠に向かってしていた。
「おお、やれば出来るじゃないですか」
「そうね。お兄に、説得されたから仕方なくね」
「あらあら、いつまでも兄離れできないんですね」
「はあ? そんなんじゃないから。逆にいつまでも生徒一人を説得出来なかった生徒会長に問題あるんじゃないの?」
ああ、雲行きが大変に怪しくなってきた。
緑と真白は睨み合い、ピリリとした空気が漂い始める。服装指導でなければ逃げてるところだが、今は逃げられそうではない。
いつのまにか出来た生徒の野次馬が、大群となって翠と真白の様子を眺めていた。
「ほらー、お前らー、ストップだー」
ピリリとした空気を引き裂くように、大群を割って、黄島先生がめんどくさそうに語尾を伸ばして注意をした。
助かった。こんなにも黄島先生が頼もしく見えるのは久しぶりかもしれない。今の俺にとっては救世主に他ならない。
生徒達は、なんだ終わりか。と言いたげに集まっていた大群が校舎の方へとなだれ込んでいった。
「まったく、皆野妹も、近藤もなにをしてるんだ。いい加減目に余るぞー」
黄島先生は真白と翠に注意をする。おお、先生らしい。語尾を伸ばしてめんどくさそうにしてなきゃちゃんと先生だ。
真白はうつむき、翠はふいとそっぽを向いて黄島先生の説教を聞いていた。
俺は完全に逃げるタイミングを失って、怒られてる真白と翠の様子を黄島先生の後ろの方で見守るよくわからないポジションについた。
「私にも考えがある。放課後、二人は職員室の私のところに来い。じゃあ、もうショートホームルームも始まるし校舎入って」
黄島先生に促され、本日の服装指導は終了し、俺達は校舎の玄関へと向かう。
黄島先生の考えがなにかわからないけれども、二人の喧嘩が収まるならそれでありがたい限りだ。
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