【書籍化記念SS】1/25発売!
ガイハンダー帝国の冬は厳しい。大陸の北方寄りに位置し、都を囲むように聳えるミッテルホルンの高い山々の山頂から冷たい風が吹き付ける。通りを行き交う人も夜ともなればめっきり少なくなり、家々には暖炉が赤々と燃え盛る。
自室の机について、ひたすら書類を見つめていたバイレッタは燃える暖炉の爆ぜる音を聞きながら思案げにアメジストの瞳を揺らした。
だが、不意に読んでいた書類の束が視界から消える。
バイレッタは思わず目の前に立つ、犯人を睨みつけた。
「ああ、もうっ。何をなさるんです」
「今日の仕事はおしまいです」
「貴方は私の秘書ではありませんよね」
「当然です、夫ですからね。もちろん夫には妻が頑張りすぎているのを止める権利があります。今が何時だと思っているのですか」
時間は知らないが、まだ深夜と呼べるほどではないと思われた。
そもそもアナルドが戦地から戻ってきたのは今日の午後だ。彼がいなければ深夜を過ぎてもバイレッタは仕事をしていただろう。何せ自分を止める者などこの屋敷には存在しないのだから。
「ああ、あと少しだけ。それは明日には回答するつもりで……私が秘書に怒られてしまうのです」
「叱られたなら、俺のせいにしてください。そもそも戦地から戻ったばかりの夫を優先して叱られるだなんて、馬鹿な話がありますか?」
確実に今日の仕事の中断はアナルドのせいだが、確かに戻ってきたばかりの夫を労わなかった時の彼の反応は後々面倒になりそうではある。
彼のエメラルドグリーンの瞳は暖炉の光を受けて煌々と輝いている。
剣呑な光を湛えているように見えて、素直に降参した。
「わかりました、これだけ読んだら寝ますから」
「なるほど。では、バイレッタ、仕事を続けたいなら賭けをしましょう」
「賭けですか?」
初めて彼に会った時も賭けを申し出られた。あの時は離婚を賭けて行ったが、今日はこのまま仕事を続けるかどうかだ。
軽い遊びのようなものだろう。
「どのような内容でしょう」
「そうですね、俺が十秒だけ触れて声を上げなければ貴女の勝ちというのはいかがです?」
「触れて声を上げない? それって変なことはしませんよね……」
「俺の手がバイレッタの頬を撫でます。どうですか?」
頬を撫でられるだけ?
それを十秒だけ声を出すことを我慢できればこのまま仕事を続けてもいいと夫は告げているのだ。なんとも簡単な賭けではないか。
負ける要素がない。素直に仕事を続けていいと許可しづらいアナルドの遠回しなお許しだろうか。
「わかりました。十秒だけです、頬を撫でるだけですよ」
「では、失礼します」
きゅっと口を結んでバイレッタは彼の長くて細い指がそっと触れるのを待つ。すっとアナルドは手を差し出してバイレッタの頬に触れた。
「ひゃあっ」
バイレッタは思わず声を上げてしまった。
彼の手がとても冷たかったからだ。
「アナルド様、どうしてそんなに手が冷たいのですか」
賭けは初めから彼が有利なように仕組まれていたのだとわかったが、そんなことより夫の手が冷たすぎる。まるで氷に触れたかのように冷ややかだった。
「しばらく外で貴女の仕事が終わるのを待っていたからですかね」
「え、なぜ外で?」
「今日は聖マヌエル祝祭の最終日ですよ」
「ああ、そういえば……なら、明日は店に行って商品を入れ替えさせなければ――」
愛を司る聖人である聖マヌエルは冬のこの時期の夜に一番輝く星となって恋人たちや夫婦を優しく照らし出す。それを聖マヌエルの祝祭として愛する者たちと眺めるという風習がガイハンダー帝国にはある。聖マヌエルの祝福が降ると言われ、星の周囲で流れ星を見た二人は永遠の愛で結ばれるらしい。それを見られるのが、星が一番輝きだした一週間くらいの間で、その期間を祝祭とするのだ。
だとしても、今日まではアナルドが家にいなかったのでバイレッタには全く関係ない話だった。そもそもそんな祝祭に縁があるような人生を送っていないし、大事にしている性格でもない。
ただその日は恋人たちに夜でも星を見ながら温かく過ごせるように、厚手で大きめのブランケットやコートなどを店に並べてアピールするくらいである。商人にとっては売り上げにつながれば、どんなイベントでもありがたい。
そのため明日は店によって商品の入れ替え作業が必要になるのだなと算段をつけていると、アナルドの顔がすっと近づいた。
「友人がこの最終日に間に合わせるように帰ると大騒ぎしていたのです。彼は嬉々として家に帰りました」
「そうですか、よかったですね……?」
返事をしながら、バイレッタは久しぶりに項がピリピリするのを感じた。
怒っている?
ご友人が無事に帰宅できてよかったのではないでしょうか。
めでたしめでたしで終わる話のはずなのに、どうしてアナルドはこれほど怒っているのか。
そもそも賭けに勝ったのは彼だ。だというのに少しも嬉しそうではなかった。
しかも、だから外にいたというのはわからない。話につながりがない……ような気がする。
「いろいろと外を歩いて気が付いたのですが、隣の寝室のバルコニーから見るのが一番綺麗に見えるようですよ」
「え、それは私と見るつもりでしょうか」
「俺は一人で星を観察する趣味はありませんが」
でしょうね! そんなロマンチストとは無縁の冷血狐ですもんね!
失言したと気が付いたが、戦争に明け暮れている戦場の冷血狐がまさか妻と祝祭を祝うために星を眺めたいだなんて乙女のような願望を持つとは思わなかった。
もしかして、彼もそのために早く帰宅したのか。
バイレッタの仕事が立て込んでいて、なかなかアナルドと話す機会がなかったので、そんなことを考えていると聞くこともなかった。
「賭けは俺の勝ちです、仕事をお終いにして付き合ってください」
口早に告げた途端にアナルドは机を回ってひょいとバイレッタをお姫様抱っこで抱き上げた。
「きゃあ、お、下ろしてくださいっ」
「暴れると落ちますよ」
「落とすの間違いじゃありませんっ?」
批難めいた視線を向ければ、アナルドは苦笑した。
わざと可愛くない言葉を言っている自覚はある。けれどアナルドは腹を立てるわけでもない。
「外はとても寒いので、温めてくれると助かります」
バイレッタは真っ赤になって、おずおずと彼の首に腕を回した。そのまま夫の胸に頭をくっつけて顔を埋める。
寒いところなんて行かなければいいのじゃないかと反論したい。そうすれば、別にわざわざ自分が温めなくてもいいのだから。
けれど、聖マヌエルの祝祭を自分と見たいなんて言い出した夫に負けたのも事実だ。賭けだって仕組まれていたとわかっても悔しくもない。
うっかり可愛いところもあるのだなとときめいた。恋愛経験の乏しいバイレッタの乙女心が見事に打ち抜かれた。
うう、降参だ。
すでに項はピリピリしない。彼の怒りは解けているが、なんだかバイレッタの心情が夫に駄々洩れな気がして気恥しい。
最初から察するのは得意な男だ。己の感情にはどこか鈍いくせに、他人の機微には敏い厄介な夫なのだから。
寝室への扉を開いて、そこからバルコニーへと出る。
途中で寝台の上に置いてあったブランケットを取って、器用に二人はくるまった。アナルドはバイレッタを抱き上げたまま、バルコニーの柵までやってきた。
「祝福が降るまで、口づけして待つのがお約束だそうですよ」
「それでは、祝福が降ったかわからないのではありません?」
話に聞く流れ星は一瞬の瞬きのうちに流れてしまうと聞いていた。
口づけしていたら、よそ見していることになり、いつ降ったのかわからないのではないだろうか。
不思議になって、思わず顔を上げる。
「では試してみましょうか」
アナルドは微笑んで、バイレッタに短い口づけをくれた。それから、少し離れてもう一度、軽く口づけられる。
「どうですか?」
「い、いえ、まったくわかりません」
「なるほど、練習が必要ですね」
「え、練習ですか?」
練習したところで、星空を見る余裕なんかバイレッタには微塵も生まれはしないのだが。
反論する暇を与えられず、長い指先で顎を取られ、熱い吐息を吹きかけられれば酩酊したような感覚に襲われた。いつの間にか頭も腰も緩やかに拘束されて何度もアナルドと口づけを交わし、果ては深く口づけられてすっかり頭はのぼせ上った。
もちろん、流れ星なんて眺めることもできなかった。けれど、すっかり冷え切った体を寝台に移って二人で仲良く温めあった後も夫は上機嫌なままだった。
星を眺める話はどうなったのだろうか。
――翌日、秘書から聖マヌエル祝祭で祝福が降るのを待つ間に口づけを交わすのは、よくある恋人たちが仲良くしたい口実だと教えられてバイレッタが真っ赤になって悶えることになるのだが、もちろん彼女は知る由もない。
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