第90話 夫という権利
今、なんと言われたのか。
もしかして自分の願望が都合のいいように、現実を捉えたのかもしれないと思ってしまった。
そうでなければ、彼がこんなはっきりと告げてくるだろうか。
だが、こちらの混乱を無視してアナルドは話し続けた。
「俺に貴女の隣に立つ権利をください。一番に名前を呼んで、一番に抱き締められる立場をください。貴女が怪我をしたら直ぐに連絡がきて、貴女が困っていたら直ぐに駆けつけられる、貴女の夫という立場を」
「そ、んなものが…貴方のメリット? 望み、ですか?」
「今回のことで痛感しました。俺は貴女を愛している男の一人だけれど、他の男と違う点は貴女の夫という権利があったからだ。権利は大事だと実感しました。こうして家に連れ帰ることもできますし、家に帰ってきたら出迎えてもくれる」
アナルドは言いながら、バイレッタを抱き寄せた。そっと真綿で包むかのような抱擁は、ふんわりと自分の心も温かくさせた。
「まぁ、傲慢で薄情な妻は出ていく気満々でしたが」
はあっと彼が吐いた息が首筋に触れて、くすぐったい。
心配したのだと、声で伝わる。
震える声は安堵に満ちていて、心をくすぐる。
「俺は感情に鈍くて、なかなか貴女への気持ちに気づけなかった。誤解もしていたし、とても妻に対する態度ではなかったと反省しています。それでも、貴女は俺に感情を向けてくれた。大嫌いだと―――まるで愛の告白ですね」
「どこが、ですか?」
「貴女は嫌いな相手に面と向かって嫌いだと言いません。笑って流しますよ。怒っているときも同じだ。そもそも事象に対して憤るのであって相手に感情をぶつけてくることはない。だから熱い想いを向けてくれたことがとても嬉しい。俺が大嫌いだから、離婚したいのだと、俺が原因なのだと言ってくれることが本当に嬉しい。光栄です」
変な性癖でもなく、変態でもなく。
彼は純粋に自分が好きなのだと唐突に実感した。
負の感情でも正の感情でも、それが彼に向けられた気持ちならなんでもいいのだ。
相手を認めているから。相手をきちんと認識しているから。
「俺と離婚したい一番の理由を教えてください」
顔を覗き込みながら告げられた言葉に、バイレッタは彼のにやついた顔を張り飛ばしたくなった。
頭のいい男は本当に嫌いだ。大嫌い。
叔父しかり、夫しかり、だ。
一言に込めた裏を簡単に読んでしまう。きっと、自分でも気づいていなかったことまで悟ってしまう。
感違いだと、間違っていると否定もさせてくれない。
「絶対に教えません。だって、貴方が大嫌いですから!」
アナルドは声をあげて笑って、そのままバイレッタに口付けた。
結局、バイレッタが離婚してスワンガン伯爵家を出ていくことはなかった。離婚したい一番の理由がなくなってしまったから。
ついでにいえば、賭けもなくなって、約束に替わったらしい。
バイレッタはそれを長く実感することになる。それこそ、死が二人を別つまで―――。
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