第89話 夫のメリット

「な、何故そこまでするのですか?」


無料の娼婦でなかったことは聞いたけれど、単なる虫避けにしたって彼がそこまで譲歩する理由はない。

ただ、妻でいればいいだなんて。


賭けではなく約束を、と彼は言った。

対等に、真摯に、彼はバイレッタに約束を提示してくれた。その気持ちがとにかく嬉しい。


だが、そんな都合のいい話があるわけない。

それはバイレッタが以前、描いていた理想の夫婦生活だ。好きなときに好きなことをして、夫に干渉されない生活。


今は、彼に愛されたくて理想だなんて言えなくなってしまったけれど。

それにしたってアナルドのメリットが無さすぎる。


「そんなこと言われたら、夜会にだって一緒に行きませんわよ?」

「構いませんよ」

「商品の買い付けに隣国まで行って、戻ってくるのは半年後とかになりますよ」

「俺も戦地に向かえば、長い間不在にしますからね。同じでしょう?」

「こ、子供がいなければお義父様は困りますわよ、後継がいないのですから」

「親戚でも、ミレイナの子供でも。父がその気になったら適当に見つけてきますよ。しばらくは爵位を譲る気もなさそうですし」


確かに、義父はアナルドを後継にするつもりも自分の引退も考えていないようだ。

突然倒れたら困るだろうと、酒を控えて剣を振り回し体を鍛えている。

いや、今はその話ではなく。


「臆病な妻は、いつも巧妙に逃げ道を見つけますが、今回はすべて塞ぎましたか?」


何故か、蛇に睨まれた蛙のように、背筋がぞっとした。

先ほどまで反省していた殊勝な態度は一瞬でなりを潜めている。もしかして賭けを持ち出した散々な初夜の謝罪はあの一言で終わったのだろうか。


あれ、謝られたのか?

一言すぎてよくわからなかった。ただ賭けはなくなったと言うことだろうか。だがそれでは離婚の道もなくなったということだ。

それはとても困る。


お飾りの妻でいるなんて、嫌だと少女が叫んでいるから。幼いバイレッタが喚いているから。でも彼はそのお飾りの妻の役目もしなくていいと言う。

どういうことなのか、さっぱり理解できない。


いや、それよりも。この話の終着点はどこだ。何故か、聞いたら後悔しそうな予感がひしひしとする。

夫が現れる前は、わりと悲しげな片思いに浸っていた筈だった。それが、今はどうだ。

急転直下すぎて、目が回る。


そして、ものすごく嫌な予感しかしない。

きっと、これ以上彼の言葉を聞いたら逃げられない。


だって逃げ道を塞いだと言われたような気がする。いや、実際言われた。アナルドは自分を妻の立場から降ろすつもりはないのだ。

彼のメリットはなんだ。上手い話には裏がある。これも商人の鉄則だ。


いつものように、思考を働かせろ。今考えなくていつ考えるというのか。だが敵はあっさりと追い討ちをかけてくる。ゆっくり思考をまとめる時間も与えてくれない。


「さぁ、バイレッタ。質問は終わりですか?」

「い、いいえ!」


ここで言葉を終わらせるわけにはいかない。きっと、言葉が尽きた先は、彼がにこやかに微笑んでいる気がするから。いつもの項がピリピリするような顔をして。


「だって、ただ妻でいるだけでいいなんて……貴方に一体、なんのメリットがあるっていうのです?!」


思わずぶつけてしまった質問に、バイレッタは顔を盛大にしかめた。

きっと聞いてはいけない。

できることなら耳を塞ぎたい。

だが、彼の返事はあっさりと落ちてきた。


「俺が心の底から貴女を愛しているからですよ、バイレッタ」





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