第87話 臆病でとても可愛い妻

「貴方が大嫌いだと言ったのですが」

「ですから、光栄だと言いました」


聞き間違えたのかと思って、もう一度告げれば、至極真面目な顔をした夫がこっくりと頷いた。


光栄ってどういうこと。

自分が知っている意味とは違う意味があるのだろうか。

知らない間に、全く別の意味を含んでしまったのか。


ダメだ。

やはり夫が何を考えているのかさっぱりわからない。

本当になんて厄介な相手に恋をしてしまったのか。恋愛初心者には上級者向けすぎてついていけない。


「大嫌いだから別れたいんです。離婚したいんです」

「そうですか。そんなに何度も言われると、照れますね」

「はあ?」


ダメだ、とうとう言葉まで通じなくなった。

大嫌いだと言われて照れる要素がどこにあるんだ。

それとも夫の性癖だろうか。世の中には特殊な性癖を持つ人もいると聞く。夫もそちらの類だろうか。


「では、今日は遅いですし、寝ましょう」

「明日になったら離婚していただけますか」

「するわけがないでしょう」

「なぜですか?」


大嫌いだって言われて納得しているのだから、離婚に応じるのが普通ではないのか。

なぜ、そこに結びつかないのか。

やはり、性癖か。なじられると興奮するタイプなのか?


疑惑の瞳を向けていれば、ふとアナルドが問いかけてきた。

急な話題転換に頭が混乱する。


「念書ですが、夫婦生活の一月っていつまでだとお考えですか」

「は? 貴方が帰ってきてからではありませんか? それならばもう一月以上は経っていますよね」

「夫婦生活を一月として記してあるのですが、夫婦生活ってなんですかね」

「え、夫婦生活、ですか?」

「俺は、貴女を抱いている時間だと認識していました」

「は、はあ? そんなの…」


夕方から明け方まで抱かれたとしても一月分には到底足りない。

いくらアナルドが求めていたって、そんなに時間が経っていないのは間違いがない。


念書をアナルドから奪って、再度眺める。

端から端まで眺めても、どこにも日付らしい日付がない。


やられた。

これを渡された時に、もっとしっかりと確認すべきだったのだ。あまりに突拍子もない話に、うっかりしていた。ふらりと持ってきて、さっさと話を終わらせたのも彼だ。つまり、諮られたということだ。


「賭けの上でも貴女はまだ俺の妻ですよ? 少なくとも俺の中では。念書は一方的なものですよね。なので、効力はまだあります」

「詐欺のような手口ですわね」

「騙されるほうが悪いと、知っていますよね。貴女も昔、父に告げたとか?」


義父が騙された時に、そんな話をしたかもしれないが覚えていない。

いや、そんなあからさまに義父をからかったりはしなかったはずだ。さすがに。


「お義父様のねつ造ではありませんか。そうやって貴方は妻の立場を押し付けようとしてきますが、そういうところが嫌なんです。都合のいい妻でいるなんてまっぴらです」

「なるほど。貴女は賭けに腹を立てているんですね。というか、都合のいい妻というところか…では賭けという言葉はやめましょう。俺は純粋に、貴女が妻であればなんでもいいのですから」

「賭けがなくなったら出ていきます。貴方に一方的に利用されるなんて御免です」

「うん? ああ、そうか。俺の妻は臆病ですからね」


また、会話が続かない。いや、会話はしている。ただ話の繋がりがわからない。きっと彼の中では繋がっているのだろうが、自分にはさっぱり理解できないのだ。


そのうえ、臆病とはなんだ。

じゃじゃ馬とか度胸があるとか言われたことは多数あれど、臆病なんて言われたことは一度もない。


一人で納得されてもこちらはさっぱりわからない。


「いつも何かと戦って背中を伸ばしている貴女を知っています。噂にだって、下卑た視線にだって貴女は少しも揺らがずに立っている負けず嫌いだと知っています。か弱い女子供がいれば身を挺して庇うほどの正義感が強いことも知っています。頭の固い老害どもにもきっちりと戦略をたてて対応できる度胸も知恵もある。俺の妻は強くて勇敢で頭がいい。自慢して誇りたい。けれど、内側で怯えているのも知っています。慎重で臆病で―――」


エメラルド・グリーンの瞳を細めて、アナルドは極上の笑みを浮かべた。


「とても可愛い妻ですからね」


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