第86話 愛しくて憎い人

突然、突き付けられた念書をしげしげと眺めて、アナルドはふうんと頷いた。


「それで、今すぐに離婚したい、と……?」

「そうです。もう荷物はまとめてありますので、今すぐに出ていけます。短い間でしたが、お世話になりました。また、離婚の書類が必要になりますのでその際にお会いしましょう。では、さようなら」


バイレッタは荷物を抱えて、アナルドの横を通り過ぎようとした。


「ようやく妻を取り戻せたと思ったら、今度は自分から出ていく…全く俺の妻はなんとも傲慢ですね」

「…手を離してください」

「応じかねます。で、結婚の不満は聞きましたが、まだ何かありますか?」

「不満はたくさんありますが、それが大きな理由ではありません。離婚したい一番の理由は言いたくありません」


夫が自分だけを愛してくれないから離婚したいなんて、この時代に我儘もいいところだ。だが、それが本心なのだから仕方がない。

結局、バイレッタの求める夫婦というものは理解されがたいものということだ。


「なるほど、閣下たちから想っていることを伝えろと言われた意味がわかりました。俺の妻が何を考えているのか少しもわかりませんね」

「理解されなくて結構です。さあ、手を離してください」

「何を怒っているんですか」

「何も怒っていません」

「それは嘘でしょう。貴女はいつも怒るときほど微笑みますから」


怒っているかだと。

それは怒りもあるかもしれない。だが、一番の理由は悲しみだ。

どこまでも愚かな自分に悲しんでいる。


母のようにはなりたくなくて。

父に言われるような女の幸せなんて馬鹿々々しく思っていて。

叔父の望む商人になりたくて。

夢を捨てきれなくて。


それを信じてここまで来て。

結局は厄介な相手に恋をして。

報われないと嘆いて、悲しんでいるだけだ。


これ以上傷つきたくないから、逃げようとしている。

弱い自分に、ただひたすらに腹が立って悲しい。


もっと自分は強いはずではなかったか。

こんなに一方的に逃げ出したくなるものなのか。

自分に裏切られたようで、それも悲しい。


「バイレッタ?」


静かに名前を呼ばれると、ふいに胸が温かくなる。そんな自分の愚かな反応に思わず内心で笑ってしまった。

冷静で感情に鈍くて、計算高い人。頭が良くて、軍人としての誇りもある。自分の道をひたすらに邁進する彼には、きっと自分の気持ちなんて少しも必要じゃない。

それが、どこまでも悲しいだなんて、悔しすぎて相手に伝えられるわけもない。


「貴方が大嫌いなんです」


自分を弱くさせる人。

自分をただの女にさせる人。

これまでの信念なんて簡単に覆してしまうほど、自分を愚かにさせる人。


恋した相手が、愛しくて憎くてたまらない。


にっこりと微笑めば、アナルドは驚きに目を瞠った。


「それは、なんとも―――…光栄ですね」

「はい?」




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