第75話 仕込まれていた恋心
「お前は自分の状況がわかっていないのか?」
「敵の手の内にいるくらいは把握しています」
「敵ではないさ。だからお前を救ってやったと言っているだろうに。中佐に殺されそうになったところをわざわざ縁を切らせて、新たに良縁を結んでやったんだ。お前はすでにヴォルクの妻だ」
にやりと笑みを浮かべてエミリオが告げる。
バイレッタは思わず告げられた意味がわからず、説明を求める顔をヴォルクに向けてしまった。
彼は相変わらずの陰険そうな顔を歪めて、人を小馬鹿にしたように口角を上げた。
「書類上ではな。証明してほしいなら、エミリオについていけ」
それも確実に偽造だろう。ヴォルクとの婚姻についてサインした覚えは少しもないのだから。
だからこそ、胸を張って堂々と宣言する。
「帝国軍人の娘ですもの、敵の手にあれば自死も厭いませんわ」
「全く、愚かな女だな! 大人しく従っていれば痛い目に遭うこともないというのに」
啖呵を切ったバイレッタに、ヴォルクは呆れ、エミリオは憤慨した。
「むしろ、私が唯々諾々と従うと思われているこの状況が心の底から不思議ですわね」
胸を反らして二人を睥睨してみせれば、単純な男たちは一瞬にして顔色を変えた。
挑発に簡単にのせられるだなんて、アナルドに比べてなんと扱いやすい男たちなのか。
だが、今は非常にありがたい。
「縛り上げてでも連れていくからな」
「お好きになさればよろしいわ、ご希望には添えないと思いますけれど!」
エミリオがバイレッタを捕えようと伸ばした腕を、軽くひねって後ろに回す。
「くっそ、いたたたた」
「どこで、そんな体術を学んだんだ?」
「学院では女子生徒の体育の参加は認められておりませんでしたものね。ですが、見ていれば覚えるものですわよ」
学院は女子生徒は体育の時間は花嫁修業と称した裁縫の時間だ。そもそも女子学生の人数が少ないため、教室で与えられた課題をひたすら作成するだけだ。だが、その時間体術や剣術を学んでいる男子生徒たちの様子をバイレッタは見学していた。与えられた課題は、学院の休み時間や放課後を利用して仕上げていたから、問題はない。
まあ、実際に見ているだけでは身に付かなかったので叔父に頼んでしっかりと指導は受けたが。父からも護身術がてら学んでいたことも大きい。そもそも昔から剣も扱えるように鍛えていたことも一因だ。
学生の頃を一緒に過ごしていると女子学生のイメージが先行して、バイレッタが体術や剣術を嗜んでいるとは想像もつかないのだろう。
そもそも学生の時に襲われたバイレッタが、どうして刃傷騒ぎを起こしたのか詳細を二人は知らないのかもしれない。
あの時も男子生徒がバイレッタを脅してナイフをかざしたので、蹴り上げて反対にナイフで脅しつけたのだ。
その際に飛びかかってきたので、うっかり彼の手の甲を切りつけてしまったことが大きく取り沙汰されてバイレッタは処分の憂き目にあった。
今でもあの状況を思い出すと、怒りで震える。屈辱的で、自分があまりに無力で。
だがあれからバイレッタは学んだ。
世の中、どうにもならない性差別はあれど、できる限りで抗おうと。
知恵もつけたし、力で敵わない相手を屈服させる方法も習得した。
そう、本当に嫌だったら逃げる手段があった。
暴れてでも脅してでも抵抗すればよかった。今のように。
アナルドが初夜を無理やり決行できたのは、心の片隅でバイレッタが望んだからだ。
その事実に、気が付いた。
ヴォルクに襲われて泣くほど体が拒絶したから実感した。
アナルドに恋をしていた自分に。
そして、それを仕込んだのがスワンガン伯爵領にいる使用人たちだということに。
その事実に愕然としたが、今はとにかく目の前の敵を排除するだけだ。
議長補佐官の文官であるエミリオを取り押さえるのは簡単そうだが、軍人たるヴォルクは難しそうだ。仮にも軍人だ。体の鍛え方が、エミリオとは明らかに違う。
だが、エミリオが自分の手の中にあれば、彼も迂闊には動けないだろう。
「おい、エミリオ。女にいいようにされてて悔しくないのか?」
「俺が体を使った体術がからっきしなのを知っているだろうが! 軍人のくせに、さっさと抑え込め」
「お前が邪魔で、手が出せないんだよ! 男のくせに、なんとかしろ」
「無茶言うな、じゃあ、お前が代わりに俺の立場になってみろ」
「代われるものなら、今すぐ代わってやるさ!」
「貴方たち、現状がわかっているのかしら」
低能な言い合いを続ける同級生に呆れた視線を向けてしまった。
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