第64話 同じ犬でも信念がある
「本日はどのようなお話でいらっしゃいます?」
「話など一つだ、わかっているだろう。しかし夫の領地へ逃げ出したと聞いたが、そのわりにはあっさりと戻ってきたな。手懐けた夫に逃げられたか、嫌がられたのか」
工場には働いている女性たちを集めた作業場と、打ち合わせのできる会議室や来客用の応接室を設けた建物とに分かれている。
今、応接室のソファに偉そうにふんぞり返って長い脚を組んでいる男は貴族だ。それも帝国貴族派に属する中でも上位に入るほどの。金糸に縁どられた上品そうな上着や、極上の柔らかさを持つカラータイに、体にぴたりと沿うように仕立てられた服はそれだけで帝都の上流のテーラーの作品であることを物語っている。
工場で量産されるような既製品などに目を向ける輩ではない。事実、彼は仕事でこの場にいる。そうでなければ、足を向けることもないだろう。
エミリオ=グラアッチェ。
グラアッチェ伯爵家の嫡男で、立法府議会議長補佐という肩書きを持つ。
バイレッタとは同じ年で尚且つ学院の同級生だ。
白に近い白金の長髪を後ろで一つに束ね、鋭いアイスブルーの瞳を持つアナルドとはまた一味違った麗人だ。態度は尊大で貴族らしい貴族とも言える。そしてヴォルク=ハワジャインの悪友でもある。
二人でバイレッタに乱暴を働くように少年たちをけしかけたのだ。もちろん証拠は何もないし、処分されたのは自分だけだったが、男嫌いに拍車をかけた原因でもある。つまり昔からの敵だ。
女であり、軍人派の娘が自分たちよりも頭がいいことを妬まれた結果だ。男の嫉妬ほど見苦しいものもない。女よりも根深いものを感じる。いや、性別は関係なく、この場合は相手の性格かもしれないが。
レットはバイレッタと彼の因縁を知っているので、背後に静かに控えてくれている。
あの頃と違って、味方がいるのはなんと心強いことか。
「戻ってきたばかりだとご存知でいらっしゃるのに、面会を取り付けて早々に今朝やってくる貴方も大概だと思われますが?」
「ふん、知っているとは思うが、俺は忙しい。こんな些末事にいつまでも時間をかけている場合でもないしな。今日中に全額支払うように」
工場が建っている土地の一部が、実は皇帝が昔、皇妃に与えた土地の一部だと判明したと言いがかりをつけてきたのは数か月前だ。
昔の工場周辺の土地の区画図を持ち出してきて、線の一部がかかっているため面積分の費用を払えと要求してきた。
こちらとしては、土地の売買契約書は地主と交わしており、行政府からも認められている。認可が一度おりたものを再度ほじくり返して何がしたいのかと聞きたいが、皇室の土地を無断で使用するならば金を払えの一点張りだ。
「何かの間違いではと、再三、こちらからは話し合いの場を設けるようにお願いしておりますが」
「時間の無駄だな」
「それならば、こちらとしましては不当な金銭はお支払いできません」
「では立ち退きを要請するだけだ。軍にやらせよう。お前の夫が喜んで手を貸してくれるだろうさ。命じられたら動くのが犬だ」
「可笑しなことをおっしゃられますね。貴方こそ貴族派の犬のくせに。同じ犬でも夫の方がまだ信念がありますわ」
夫ならば命じられてもほいほい動かない。
必ず自分の頭で考えるだろう。情報を集めて確実に勝利を掴むための道筋を立てる。
目の前の男は貴族の権威に囚われて、ありもしない妄執を振り回しているだけだ。そもそも立法府の議長補佐が関わる仕事ではない。つまり何かしらの陰謀にバイレッタが巻き込まれているようだが仔細は不明だ。目の前の男は上から命じられたように動いているだけだからあまり内容を知らないように感じる。そこに疑問を持たないのだから、アナルドを馬鹿にする前に、まずは己の姿を冷静に分析すべきだろう。
それに、と心の中でこっそりと呟く。
バイレッタの夫は犬ほどかわいくはない。猛犬というよりはやはり狐だ。敵国もなかなか的を射たあだ名をつけるものだ。
「なんだ、夫が戻ってきても相変わらず可愛げがないな…少しは泣きついてみろ。そうすれば考えてやらないでもないが?」
「ご冗談を」
言葉のとおり考えるふりをするだけだ。
泣いて懇願したところで、目の前の男に嘲笑されて終わることは目に見えている。
権威をきて、バイレッタを屈服させたいだけだ。昔できなかったことを、大人になってから実行しようとしている。
そんな子供じみた確執に従業員たちを巻き込むことを心苦しく感じる。だが、悩むくらいならば対処をすべきだ。相手が何を仕掛けてきてもいいように、頭を働かせて先手を打つ。
迎撃用意ですね、とレスガラナは言った。
バイレッタはにこりと笑顔をエミリオに向けた。
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