閑話 夫の特権(アナルド視点)
腕の中にいるのは、バスローブを羽織った妻だ。
蒸気した頬も、すこやかに眠りに落ちている長いまつげの落ちる影も。
バイレッタの重みを腕で、体でゆっくりと堪能しながら、意識を失ってしまった彼女を抱え、なんとなくアナルドは満足した気分のまま迎賓館の廊下を進む。
迎賓館の中を自室に割り当てられた部屋に向かって歩いていると、向かいからゲイルがやってきた。
迎賓館の中でも領主に割り当てられた私的な建物だ。使用人ならまだしも、一応は客となる彼とは本来ならばかち合わないはずだが。
「バイレッタ嬢? どうかされたのか」
いぶかしんでいると、ゲイルはアナルドの腕の中で気を失っている妻を見つけて、顔色を変えて問い詰めてくる。
自然とバイレッタの顔を隠すように、自身の胸に押し付けていた。
「単なる湯あたりですよ」
「そ、そうですか」
湯の中で行為に没頭しすぎた自分が悪いのだが、それを赤裸々に語ることはない。
そんなものは自分だけが知っていれば、いい。夫の特権だろう。
先ほどまでの妖艶ともいえる妻の姿を思い出して、アナルドはゲイルを見つめる。
さすがは王族の血縁者だけあって整った顔をしている。精悍で男らしい。そんな容姿の男は彼女の周りにはたくさんいるが、妻が気を許している男は珍しいのでついついこういう顔が好みなのだろうかと眺めてしまった。
容姿だけでなく、剣の腕も立つ。現場の指揮もとれて、全体に目が行き届いている。配慮があり、部下に仕事を任せるのも上手い。
理想の上司だとの評価をあちこちから聞いた。
隣国の離反がなければ、今よりもずっと高い地位にいたに違いない。今でも本人は隣国に戻る気はないようだが、彼の家も周囲もすぐに復権できるように画策しているとの報告を受けている。
間男にしてはなんとも強敵だ。
何よりバイレッタを大切にしている。その感情は崇拝に近いが、その分純粋だ。
自分よりもずっと、彼女に相応しいように思えた。
ゲイルを見習うべきなのではないだろうか。
参考にする相手を間違えたのでは、とアナルドはここに来てようやく計画の変更を考える。
いやそもそも、賭けを申し出た時点で失敗していたような気もするが、何度思い返しても最善の案が思い付かず、妻に逃げられていたような予感がしたので、その件に関しては目を瞑っているのだが。
「貴殿は、その…もう少し彼女を大切にしたほうがいいのではないか?」
「大切にしていますが?」
「だが、彼女は貴殿から逃げたがっている」
「妻から何を言われたのか知りませんが、俺は彼女を手放す気はありませんよ」
「逃げる、逃げないを決めるのはバイレッタ嬢でしょう。貴殿は逃げられないように、もっと大事にするべきでは?」
彼から助言めいた言葉が出て、アナルドは内心で目をみはった。
彼はきっとお人好しと呼ばれるような人物なのだろう。普通は敵に塩を送るような真似はしないだろうから。
自分だったら誤情報でも流して幻滅させる。
そう思いながら、だがそんなことをしてもバイレッタは手に入らないのだろうな、と考える。相手の不利をどれだけあげつらねても、決して彼女が情報の一つとして認識するだけで、真実を探そうとする。もしくはもっと確かな情報を探そうとする。
膨大な情報の中から、真実を見つけられる。
それがバイレッタだと知っているから。
なんとなく面白くない思いをしながら、アナルドはゲイルに問うてみる。
「俺の中では大事にしているつもりですが…例えば、どこを改善すべきだと指摘されますか?」
「え、は、どこ、ですか…そうですね、せめて彼女の顔色が悪い時には支えてあげるとか」
まさか尋ねられるとは思わなかったのか、ゲイルも戸惑ったように答えた。そこを答えてしまうあたり、やはりお人好しだ。
「彼女は必要以上に構われることを嫌います。特に弱っている時には」
「ですから気づかないようにさりげなさを装えばよろしいのでは?」
「なるほど。ですが気づかれない行為に意味がありますか?」
「彼女は賢いですから。いずれは気づいてくれますよ。むしろあからさまな押し付けの親切を嫌いますよね」
やはり彼を見習うべきだったかとアナルドは感心しながらも聞き入った。
いつかは気づいてもらえるように、さりげない親切を繰り返せばいいらしい。
だが、それはゲイル自身に当てはまる行動のようにも思えた。
それではきっと彼の立場までしかなれないのではないだろうか。
自分はきっと、もっと彼女の特別になりたい。それがどういうものなのかはよくわからないのだが。
考えこんでいるアナルドを見つめてゲイルはふと苦笑した。
「どうも貴殿は私が考えていた人物とは違うようだ。冷血な愛情の欠片もないような人物だと噂されていましたから…やはり噂は当てにはなりませんね」
褒められたのかは疑問だが、これには礼を告げるべきだろうか。
逡巡していると、くしゅんとバイレッタが小さなくしゃみをした。
「早く落ち着かせてあげてください」
「ええ…では失礼します」
会釈して間男との邂逅を終えるのだった。
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