第51話 愛妻家のアピール

三日間晴れた日が続いたので山間の治水現場を視察に行くことになった。領主館から馬車で揺られること4時間、そこから軽い山歩きが3時間の場所だ。

同行するのはゲイル、アナルドに、調査員であるナヤルバとその助手だ。ラスナーは違う工事現場に監督として赴いているので不在だった。


ナヤルバは中年の気のいい男だ。この水防事業のために帝都の大学から招いている学者でもある。領主館に部屋を与えてあるが、年がら年中領地内を巡っているのでなかなか屋敷で会うことができない。

地質学と土木学を学んでおり、治水の専門家だ。研究熱心で身だしなみにだらしないところが、貴族に嫌われる理由だそうだが、バイレッタは能力を高く評価している。

義父も貴族のくせに身だしなみについてはとやかく言わないので、8年前からすっかり馴染みの顔となっている。


山道を進むと、不意に隣を歩いていた夫が声をかけてきた。


「足元に気をつけてください」


アナルドが手を取って引き寄せてくれる。足場の悪い川べりは苔むしていて滑りやすい。今まではゲイルが支えてくれていた。それが夫に代わったようだ。一応、賭けの間だけの妻だが、優しくする気はあるらしい。


「ありがとうございます」

「しっかりと握っていてくださいね」


にこやかにほほ笑む夫に、別人のような気持ちになる。

愛想を振りまくことにした理由がわからない。


ここは夜会でもないので、彼が愛妻家をアピールしなければならない相手はいない筈だが。

けれど夫に何を考えているのか問い詰めても明確な答えは得られないような気がする。

結果的に、バイレッタは乾いた笑いを漏らすだけだった。


「随分と仲の良い夫婦なんですねぇ」


間延びしたように、ナヤルバが口を開いた。


「戦地からようやく戻ってこられたのですから、当然ですよ」


戦地から戻ってきた夫は妻を馬鹿にするような賭けなど持ち出さないが。

バイレッタは否定したい言葉をぐっと飲み込んだ。

彼に仲の良さを示したくて、表情を作っているのだろうか。だとしたら、無駄な行いだ。

学者は基本的に研究対象にしか熱意を傾けない。今の発言だって今日はいい天気ですねぐらいの挨拶のようなものだ。

なんの裏も含んでいないのだから。


「しかし、先日の雨で随分と道が悪くなっているね。川も増水していて危険だし。ここから手を入れたほうがいいかもしれないな、タダムくん測量計出してくれるかな」

「はい、先生。こちらになります」


小柄な青年が背中に背負っていた鞄から道具を取り出して渡す。

ナヤルバはあっちこっちをウロウロしながら、すっかり自分の世界に入っている。タダムという助手が彼の後ろをついて歩くので、なんだか微笑ましい光景だ。


アナルドは風景を眺めるように彼の行動を無表情で眺めている。これが彼の通常なのでむしろ落ち着く。


「ここに手を加えるとなると、足場が必要になりますね」

「ここに来るまでの道も整えなければならないでしょう。資材を運ぶのにも時間がかかりそうだ」

「以前別の道を広げませんでしたか? 迂回して上から降ろしてきたほうが早いんじゃないでしょうか」


横に立つゲイルに問いかければ、彼は周囲を見回しながら足元に目を向けた。


「そうですね、確かここより北のほうにあったかと思いますが…」

「帰りはそちらの筋から戻りましょうか」

「先日の雨で何処まで使えるかわかりませんから、確認したほうがいいですね」


ゲイルが頷いたのでアナルドを見上げれば彼は随分と険しい表情をしていた。


「どうかしましたか?」

「体のほうは大丈夫なのですか」

「は?」

「え、まさか若奥様は妊娠されてらっしゃるんですか?!」


いつの間にか近くにいたタダムが頓狂な声をあげた。


「そんな身重で山を登るだなんて、むちゃくちゃですよ。若旦那様も止めなければ! せっかく戦争から戻られて若奥様と一緒にいられて喜ばれるのもわかりますが、女性はもっと大切にするものです。そもそもこんな山歩きに連れてくるだなんてもっての他で―――」


月のモノがきている間は貧血になりやすい。いつもよりも青い顔色でふらふらしているので、アナルドは見かねて訊ねてくれたのだろう。

タダムは独身でいつもナヤルバの世話ばかりしているので嫁の来てがないそうだ。女性を神聖視していて、初対面のときから何くれとバイレッタを気遣ってくれる。


だが先走った誤解に、こんこんと怒られている夫を見るのは少し可哀想だが、自業自得でもある。


どうにも彼には言葉が足りないところがある。端的に言葉をまとめてしまうので、知らない相手が聞けば誤解を与えかねないのだ。


これで少しは反省すればいい。

いつも振り回されているバイレッタは、さていつ助けようか考えながら成り行きを見守ると、ゲイルがこっそりと耳打ちしてきた。


「妊娠してらっしゃるんですか?」

「誤解なんです、少し血が足りなくて…」

「そうですか。では帰りは最短距離で戻ってください。上からのルートは私が見てきましょう」

「ありがとうございます、ゲイル様」


貧血ぎみなのは本当なので、素直にゲイルの気遣いに甘えることにした。


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