閑話 悪女の嫁(アナルド視点)
祝勝会とは本来、面倒なものだ。
そもそも夜会が好きではないし、無意味な集まりに参加することも好まない。
だというのに、上司が嫌がらせのように呼びつけるので、結果的に参加せざるを得ない。
いつもならば、始まりに少し顔を出しただけで軍の与えられた部屋に戻るのだが、今回はどうにも心が跳ねている。
それが隣にいる彼女のおかげだとは、鈍いアナルドにもわかっていた。
今日の彼女は夜会用のドレスに身を包んでいる。
典礼用の軍服は深い緑に、金や銀の糸で刺繍を施したものだ。それに勲章やら徽章やら階級章がついているので華やかさもひときわとなる。
だが、彼女のドレスは寄り添うとさらに軍服が引き立つ色合いになっている。
見劣りもしないし、かといって主張もしない。
軍人の妻のためのドレスだ。緻密に計算されたかのように、そっと添えられている。
アナルドは感心しながら、美しく装った妻を眺める。夫からの不躾な視線に、バイレッタは軽く睨み返してくるのだが、それはそれで愉快に思うのだから、自分は何の病気になったのかと思わなくもない。
会場に到着するなり、妻に向けられた視線は友好的なものばかりではなかった。
友人であるジョアンが思わず忠告してくるほどには、蔑視と羨望の入り交じった複雑な視線だ。
だが、今ほど警戒することもないだろう。
「バイレッタ=ホラント?」
妻の旧姓を呼ぶ聞きなれない声に、アナルドは思わず振り返ってまじまじと相手を見つめてしまった。
振り返った先には、輝くサニーブロンドの長身の男が立っていた。猛禽類を思わせる鳶色の瞳は、どこか陰気だ。狡猾そうな笑顔もなんだか不快さを与える。
妻の体が少し強張ったように思えたが、声音はいつものように柔らかだった。
「あら、お久しぶりですわね。ヴォルク=ハワジャイン様」
「お知り合いですか?」
「ええ。学院の同級生でしたの。旦那様は彼をご存知ですか?」
「ああ、情報戦略部隊の中隊長ですね。今回で中尉になったはずですが」
「はっ、光栄です中佐殿」
彼は敬礼して答えた。
昼にやった式典で昇級した中にいたのを覚えている。
名前を呼ばれて返事をしていた男だ。
「しかしスワンガン中佐の奥様が君だとはね。どおりで噂が絶えないわけだ」
「どういう噂かしら?」
バイレッタが首を傾げれば、アナルドはすっと瞳を細めた。
陰険そうな顔をしたまま、いったい何を話すつもりなのか。
「どういうつもりです?」
「いえ、此度の戦の立役者たる中佐殿が騙されているのを黙ってみているのも気がひけまして。この女は学院の男どもを手玉にとって好き勝手して教師からも煙たがられていたのですから」
学院の話は報告書にもあがってきていた。鵜呑みにしていたのもアナルドだが、今は事実無根だと知っている。だが軍でもそういった噂が絶えないことを知っていた。げんに、祝勝会にやってきた途端にジョアンに忠告を受けた。
南方戦線から帰ってきた部隊員にもあっという間に広がったのだろう。
ヴォルクが得意げに語りだす。
「今もいろんな男と関係しているんだろう? それこそ中佐殿の父親を筆頭にな」
「妻を侮辱するのはやめてください」
思わず、ぴしゃりとヴォルクに言い放つ。
沸々と腹の底から不快感が増して、気持ちが悪くなるほどだ。
妻の相手は自分だけだと知っている。それこそ朝から夜までほとんど一緒にいるのだ。他の男の相手などできる隙すら与えていない。事実無根であることなど簡単に証明できる。
睨みつけると、ヴォルクはたじたじになっていた。
「で、ですが中佐殿のために…」
「関係ありません。妻のことは私が一番よくわかっています。彼女がどれほど高潔かということもね」
「こ、れは失礼しました、中佐殿。では…」
しどろもどろと言い訳をして、会場の奥へと姿を消していく。
噂はあくまでも噂だ。自分の妻の場合は誹謗中傷もいい話だと知っている。こんな不愉快な視線にさらされ彼女が戦ってきたと思えば、なんだか冷たい感情の塊が腹の中にたまるような気持ちになった。
消化できない重苦しい気持ちが揺れる。
だが、当の妻はなんだか不思議そうに自分を見上げてくる。
「旦那様はご存知でいらっしゃったんですね」
「相手の身辺調査をするのは普通のことでしょう?」
「ご存知だったのに、私と結婚を?」
「知ったのはつい最近ですが。軍の中でも随分と貴女に関する噂は広まっていました。どうやら俺の妻の人気はとても高いようですね」
「え…人気、ですか?」
きょとんと聞き返してくる妻を、なぜだか抱きしめたくなった。
彼女は父が言うように自分の価値に無頓着だ。
容姿が優れているだけでなく、その心根も優しくそれが態度に現れているので人を惹きつける魅力に溢れている。機転もきくし知性も豊かでユーモアもある。
会話をしていて苦痛に思わないなど、それだけでアナルドにとっては貴重な相手だ。
「貴女に振られた男たちが悔し紛れに悪評を流したようです。おかげで、俺はとんだ悪女を嫁に貰ったという話になっていますね」
「それなのに、離婚に応じないのですか?」
「こんなに素敵な妻を手放す男がいると思いますか? 残念ながら、俺はおろかなつもりはありませんよ。難攻不落の妻を得られた幸運を自ら放り出すことなどしませんから」
数日過ごしただけでも、すっかり自分は彼女の傍にいることに慣れた。
一緒に出掛けても時間を感じない。夜も昼もいつだって関係なく抱き合いたいと思う。そんな欲求を女性に求めるような男ではないと思っていたが、どうやら違ったようだ。
彼女もそうであればいい。
願いを込めて見つめれば、彼女の顔にさっと朱が差した。
「す、すみません、少し、あの化粧直しにいってきます」
「では、俺は少し外で涼んでいますね」
「はい」
アナルドは足早に会場の外の廊下へと向かうバイレッタの姿を見送って、妻の今の反応の意味を吟味するのだった。
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