閑話 信じられないほど可愛い妻(アナルド視点)

「お久しぶりですわね、アナルド様」


わざわざファーストネームで呼んでくるあたりで、彼女の思惑が透けて見えるようだ。いつまでも自分との体の関係を周囲にひけらかすような態度は改めるつもりはないのだろうが、次を期待する瞳を向けられても何の感情も起こらない。

アナルドは無表情でカーラを見つめ返す。


かつての夜会で知り合った頃は、彼女もここまで化粧が濃くなかったはずだが、今は気持ちが悪くなるほどだ。

それとも薄い化粧のバイレッタを見慣れたせいだろうか。彼女は石鹸や優しい匂いがする。ふんわりと動くと香る程度のささやかなものだが、ひどく心が落ち着くのだ。

自然と妻と比べている自分に、小さな違和感を覚えた。


「久しぶりですね」


答えながら視線を動かしてバイレッタを探すが、彼女の特徴的なストロベリーブロンドは見つけられなかった。


「あら、奥様をお探しでいらっしゃいます?」

「戦地から戻ってきたばかりですので、大事な妻からは目を離したくないんですよ」

「まあ、中佐殿からそのようなお言葉が出てくるなんて、よほど可愛らしい奥様なのでしょうね。でもご安心なさって。彼女の許可は得ておりますの」

「許可?」

「少し貴方とお話したいと先ほどお願いいたしましたら、快く受けてくださいましたわ。噂の奥様はさすがに寛容でいらっしゃいますわね」


ここでも噂、だ。

段々イライラとしてきた。どうやったら、彼女の人となりが伝わるのだろう。

あれほど清廉で、高潔で、たおやかで、優雅な女性をアナルドは知らない。少しでも彼女の傍にいれば、簡単にわかることなのだが。

いや、噂話をしているのは彼女の傍にいない者ばかりなのだ。彼女の付き合いは仕事に関係している者たちで、この場にはほとんどの者がいない。だからといって、彼女の付き合いを広げて欲しいかと思えばそうでもない。噂は否定したいが、彼女のことを知る人物は少ない方が良いような気がする。

矛盾した考えに、アナルドは内心で首を捻る。


夫たる自分だけが知っていればいい気もするし、誤解されるような妻の噂は払拭したい気もする。夫だけにしか見せない顔を知っていれば満足だろうか。

妻の夜の妖艶さは自分だけが知っている。

それを面白おかしく噂されるのは、なぜか我慢がならない。だからイライラするのだろうか。


そもそもいろんな男が彼女の痴態を知っていると?

想像するだけで胃がカッと熱くなった気がした。


「貴女が何をお聞きになったかは知りませんが、それは俺の妻ではないですね」

「え?」

「俺の妻は素晴らしく美しく、信じられないくらい可愛らしいですから」


それはもう、毎晩抱きつぶしてもまったく飽きないほどに。

思わず顔がニヤけそうになると、カーラが目を瞠った。

そこへ、ジョアンが不意に現れた。


「ああ、こんなところにいたのか、アナルド。おやカーラ=ライデウォール女伯爵様。パートナーの方があちらで探しておられましたよ」

「そう。でも私はアナルド様と少し話がありまして」

「こちらにはとくにありませんので、手短にお願いします」

「あ、アナルド様は長く戦地に行かれていてご存知ないのでしょうけれど、社交界では結構な醜聞になっておりましたのよ? ご自身の父親と自分の妻が関係しているなどと思いたくはないでしょうけれど…」

「その話はもう結構です。それ以外にありますか?」


平坦に告げたつもりだが、横にいたジョアンがぎょっとした顔をしているところを見ると、随分と冷たい声が出たようだ。

とりなすように、彼はカーラに声をかける。


「女伯爵様、何かお急ぎのようでしたよ。早く行かれたほうがよろしいかと」

「そ、そう…では失礼させていただきますわ。ごきげんよう」


ぎこちなく礼をして逃げるように去るカーラからジョアンに視線を戻せば、彼は何ともいえない間抜けな顔をしていた。


「なんだ?」

「いや…お前も人並の感情があったのかと思って…」


ジョアンは言い淀んだあと、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。

手に持っていた二つのグラスのうちの一つを差し出す。


「ちょっと付き合え、一杯どうだ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る