第36話 学院の同級生
祝勝会というのは、ひとまず軍の関係者が一同に集まって飲んで騒ごうという会らしい。あちこちで勝ったことを仲間同士で褒めたたえあい、生きて戻ったことを祝う。
すっかり浮かれてお祝いモードになっている会場で、アナルドは部下たちに話しかけることもなく出会う上官に時折会話を交わす程度だった。
父は部下たちを労ってすっかり出来上がってしまっている。離れたところからでも盛り上がっているのがよくわかる。
「旦那様はほかの方のところにはいかないのですか」
「俺が行っても場の空気を悪くしますから」
とくに気にした様子もなく、アナルドは何杯目かのグラスを空にした。
淡々と告げられた言葉に、そうですかと同意することも憚られる。
この人は大丈夫だろうかと心配になる。
「バイレッタ=ホラント?」
これまではアナルドの名前ばかり呼ばれていたが、まさか自分の名前が聞こえるとは。バイレッタは思わず身構えた。しかも旧姓だ。
軍の関係者に自分をフルネームで呼ぶ知り合いはいない。大抵はホラント大佐の娘さんなどだ。
つまり碌な相手ではないだろう。
振り返った先には、輝くサニーブロンドの長身の男が立っていた。
猛禽類を思わせる鳶色の瞳も変わらない。
狡猾で陰険で陰湿。
やはり碌な相手ではなかった。
記憶の中よりも随分と男らしくなってはいるが、だからといって嫌な陰を纏っているところは変わらない。
「あら、お久しぶりですわね。ヴォルク=ハワジャイン様」
「お知り合いですか?」
アナルドがバイレッタの顔を覗きこんで来る。探るというよりは純粋に興味があるようだ。知り合いというか顔見知りというか、因縁の相手というか。
ひとまず頷いておく。
「ええ。学院の同級生でしたの。旦那様は彼をご存知ですか?」
「ああ、情報戦略部隊の中隊長ですね。今回で中尉になったはずです」
「はっ、光栄です中佐殿」
彼はすかさず敬礼して答えた。なかなか堂に入った姿だが、もちろん感じ入ったりはしない。
案の定、口の端を上げてなんとも嫌みったらしい表情を向けてくる。
「しかしスワンガン中佐の奥様が君だとはね。どおりで噂が絶えないわけだ」
「どういう噂かしら?」
バイレッタが首を傾げれば、アナルドが怜悧な瞳を向ける。
やや低くなった声音で問い返す様は、彼の不機嫌さを表していた。
「どういうつもりです?」
「いえ、此度の戦の立役者たる中佐殿が騙されているのを黙ってみているのも気がひけまして。この女は学院の男どもを手玉にとって好き勝手して教師からも煙たがられていたのですから」
だがヴォルクは夫の反応にもめげずに、むしろ得意そうに語る。
そういう情報を流したのが、目の前の男だ。だが残念ながら彼が広めたという証拠もなく、バイレッタの味方もいなかった。4年間の学院生活は地獄だったと言わざるを得ない。そのうち、同級生の二人が、バイレッタを襲ったのだ。いわゆる強姦だった。
生憎未遂で済んだが、なぜかバイレッタが誘ったとして自分だけが処分を受けた。
そのまま卒業してしまったので、バイレッタの成績は底辺をはっている。名誉も尊厳もズタズタだ。
だが、まさか軍の関係者にまで同様の噂を流されているとは思わなかった。
「今もいろんな男と関係しているんだろう? それこそ中佐殿の父親を筆頭にな」
「妻を侮辱するのはやめてください」
バイレッタが言い返すよりも前に、ぴしゃりとアナルドがヴォルクに言い放つ。
今までも怒っていたが、今が一番怒っている。夫の視線だけで相手が凍り付きそうなほどに冷たい。
そんな視線を向けられたヴォルクはたじたじになっている。
基本的には小心者なのだ。
「で、ですが中佐殿のために…」
「関係ありません。妻のことは私が一番よくわかっています。彼女がどれほど高潔かということもね」
「こ、れは失礼しました、中佐殿。では…」
彼にしては珍しくしどろもどろで、会場の奥へと姿を消していく。
バイレッタは隣に静かに並ぶ夫を見つめた。
表情には一貫して変化がない。
だが、妻が悪女だと、数々の男と関係したと噂を知っていたのに怒りもしなかったのか。いや、知っていたからこそ、賭けを持ち出したのだろう。
適当に遊んで離婚するつもりだったのだろうか。それとも、懲らしめるつもりか。
他人にあまり興味のなさそうな彼が、わざわざそんな手間をかけるだろうか。
そこにどういう意図があるのかは、まだ読めないけれど。
「旦那様は噂をご存知でいらっしゃったんですね」
「相手の身辺調査をするのは普通のことでしょう?」
貴族の婚姻や軍の関係者ならば、当然かもしれない。
だが知っていたのに、自分との結婚を承諾したとは。
「ご存知だったのに、私と結婚を?」
「知ったのはつい最近ですが。軍の中でも随分と貴女に関する噂は広まっていました。どうやら俺の妻の人気はとても高いようですね」
「え…人気、ですか?」
批難されるかと思えば、妙に感心したアナルドの様子に、思わずバイレッタは聞き返していた。
「貴女に振られた男たちが悔し紛れに悪評を流したようです。おかげで、俺はとんだ悪女を嫁に貰ったという話になっていますね」
「それなのに、離婚に応じないのですか?」
祝勝会に入った途端に向けられた視線の意味がわかって、妙に納得した。だが夫の態度だけは腑に落ちない。
きょとんとバイレッタが瞬けば、アナルドも不思議そうに首を傾げた。
「こんなに素敵な妻を手放す男がいると思いますか? 残念ながら、俺はおろかなつもりはありませんよ。難攻不落の妻を得られた幸運を自ら放り出すことなどしませんから」
いつもならば容姿を褒められてもなんとも思わない。
難攻不落と称されて誉め言葉と素直に受け取るのも難しい。そもそも褒められているのかも疑わしい。
だが、ぼっと顔が熱くなるのがわかった。
夜の行為とはまた別の羞恥がバイレッタを襲う。
妙に居心地が悪く、心臓が踊る。
初めての経験に狼狽えてしまった。
「す、すみません、少し、あの化粧直しにいってきます」
「では、俺は少し外で涼んでいますね」
「はい」
バイレッタは足早に会場の外の廊下へと向かうのだった。
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