第31話 夫婦生活の範疇

夕食を終えて、自室に寛いでいるとアナルドが部屋へとやってきた。

基本的には夫婦のための部屋なので、今まではバイレッタが一人で使ってきたが今後は彼との共有になるのかと思うと、少々気が滅入る。


それでも一月は逃げる訳にも行かない。

将来の自分の自由のためには多少の我慢は必要だ。


「昨日の念書を持ってきました。内容に文句がなければ、サインしてください」


差し出された書面をざっと眺める。


『一つ、契約の間は夫婦の生活を送る』

『一つ、上記期限は一月とする』

『一つ、上記期限の間に子供ができた場合は婚姻を生涯継続する。できなかった場合は離婚に応じる』


余計な文言もないシンプルな内容を見て、書き物用の小さい机に向かってバイレッタは名前をサインする。


「では、同意いただいたということで。そのまま、貴女が保管されますか?」

「そうですわね」


店の権利書や、商売用の重要な取引書類などを保管している金庫に預けようと心に決めて、いったんは机の引き出しにしまう。


「では、さっそく夫婦としての仕事をしていただきましょうか」


アナルドが微笑んで、バイレッタの腰を抱き寄せた。

いつの間にこんなに近くにいたのか。

あまりの素早さに、目を回す。


「な、なにを…」


また昨日の夜のように体をむさぼられるのか。

いいように翻弄されて終わるのが悔しくてしょうがないが、アナルドの胸を押してもびくともしない。


「契約成立ですよ。同意しましたよね?」

「そうですけれど…」


突然来られると心臓が落ち着かなくなる。

すでに入浴を済ませているので、まるで準備万端みたいではないか。

体を洗っていないのなら、時間を稼ぐ口実になったというのに。


「まだ、寝るには早い時間でしょう…?」

「うん? 時間ですか…そうですね、八時ですから寝るには早いですけれど。少しでも早い方がいいかと思いまして」


どれだけ時間をかけるつもりだ。

また明け方コースは勘弁してほしい。明日こそは工場に顔を出したいのに。


「今週末に祝勝会があります。夜会に参加するとなると、準備に時間がかかるでしょう?」

「は?」

「女性の用意がどれほどかかるのか俺にはよくわかりませんが。男のように軍服を着るわけにもいかないでしょうから。ドレスなどの服飾だけではなく、宝石などの飾りから肌の手入れなどもあると聞いております」

「な、んのお話、ですか?」

「聞いていませんか、この度の休戦協定のための祝勝記念式典が今週末に開かれるのですが、式典は日中に行って夜には軍関係者と家族を招いた祝勝会があるのです。参加の通知書が届いていると思っていましたが。こちらではなく、軍の部屋の方に届いているんですかね」

「ああ、いえ。お義父様からお話は伺わせていただきました」


義父がアナルド宛の文書を勝手に開けてみていたあの手紙だろう。

確かに式典を開くと書いてあったはずだ。

その夜に祝勝会と称した夜会が開かれるのか。

だが、今週末とは。あと四日しかない。


「パートナーの同伴が夜会の参加条件ですので、ぜひとも参加していただけますよね」


にこりと微笑んだアナルドが悪魔の微笑みに見えた。

なまじ顔が整っている分、凶悪に見える。


勘違いしていたことに一気に羞恥が増す。

顔が熱くなったが、できるだけ平静を心がけた。声が上ずらないように、忍耐を総動員する。

決して、夜の行為を期待したわけではない。

そもそも相手の言い方も悪いのではないか。

というか、あの念書の夫婦生活という範疇が存外広い意味で使えることにも愕然とした。


「わかりましたわ、旦那様」

「ありがとうございます」


目まぐるしく変化する心を必死で宥めているとお礼を告げた形のいい薄い唇がすっと近づいてきた。と思ったら、深く口づけされている。そのまま吐息ごと奪われる。

戸惑う心は舌ごと絡めとられる。


「は…っなにを…」

「もちろん夫婦生活ですよ、同意したでしょう?」


バイレッタが驚いてしまうほど己の体はアナルドの与える口づけに従順だ。抵抗らしい抵抗もできずに、昨日の夜に与えられた快楽を期待して震える。

狼狽える気持ちもあるのに、体が心を裏切る感覚に舌打ちしたくなる。


「俺にまだ知らない妻を教えてください?」


結局はこうなるのだ、と諦めに似た気持ちを必死で飲み込むのだった。


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