第29話 笑顔という名詞

家に帰り着くと、バイレッタは疲労のために眩暈を覚えたほどだった。

店を出てから商店街をふらつき、遅めの軽い昼食を食べてようやく満足したのか彼は家に帰ることを了承した。

バイレッタの買い物についてきただけの夫に帰宅の許可を貰わなければならないのかは謎だが。


なんとか伯爵家の玄関をくぐったときには、日はすっかり傾いていた。

顔色の悪い自分に対して、アナルドは始終にこやかな微笑を浮かべていた。

見かけだけは穏やかに見せかけているのかと思えば、出迎えたドノバンの表情を見てそうでもないと知る。


「わ、若様…な、なにかありましたか?!」

「何ですか?」

「若様の口角が上がっているところなど、お小さい時でも見たことはございませんが…」


笑顔という名詞を使わないところが、ますます彼の無表情っぷりを際立たせている。今が異常事態なのだろうが、できれば自分とは関わりのないところでお願いしたい。

心の中で突っ込んで、決して口には出せないこの状況にも疲労が増している要因の一つだろう。


「あら…まぁ、お帰りなさい」


玄関にやってきた義母が、自分たちを見て困ったような微笑を浮かべた。

本当はバイレッタが今日出ていくために、義母とミレイナには屋敷を留守にしてもらっていたのだ。その方が出奔が発覚したときにアナルドに叱られにくいだろうという配慮だったのだが。

義母は友人宅の茶会に招かれたといい、ミレイナもレナードとの約束があると昨日は話してくれたが、二人で玄関口にいるのだから捕まってしまったことは伝わったのだろう。もしくはバイレッタが出られなかった朝食の席ですでにアナルド本人から聞かされているのかもしれないが。

同情的な視線を向けてくる義母に必死で心の中で謝罪する。


「只今戻りました、お義母様。ミレイナは戻っていますか?」


心配してくれていた義妹にも早めに話した方が良いだろうと義母に視線を向ければ頷きが返ってくる。


「旦那様、少しミレイナのところにいって参ります。今日はお付き合いいただいてありがとうございました」

「少しは楽しめましたか?」

「勿論ですわ」


楽しむとは隣にいる大魔王がいつ降臨するかとびくびくすることを言うのだろうか。それとも、見慣れぬ笑顔の夫の横でぷるぷる震えることか。欲しくもないものを眺めて時間をつぶし、全く味のしない砂のような食感の昼食を食べることか。

上級者向け過ぎて、バイレッタには少しも楽しむ余地などなかったが。思い切り社交辞令で微笑んでみた。

疲れすぎて、視界が明滅しているとは絶対に言わない。

よくわからないが、女の意地のような気もする。


だが、これ以上は限界だ。

断固として休息を要求する。心の憩いが欲しい。


引き留められる前にバイレッタはそそくさとミレイナの自室に向かうのだった。


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