第41話 後のお楽しみ

信じられない気持ちを込めて、バイレッタは枕を夫の顔に向かって投げつけた。


ちょうど寝室に入ってきたアナルドは目をぱちくりとさせて裸体に上掛けを引き上げた妻の姿を見つめた。その瞳には動揺も罪悪感も微塵も見えない。


朝の光を受けた彼は当たり前だが、簡素なシャツにズボンといったラフな格好だ。昨日の夜会の雰囲気はどこにもない。怒っていた空気も霧散している。

寝ぐせ一つない艶やかな灰色の髪に、無機質なエメラルドグリーンの瞳を妻に向けてくる。

だが体に残る倦怠感はしきりに自分に現実だと訴えてくる。

一人で勝手に昨晩のことがなかったかのような整った無表情を見ると無性に腹が立った。


「どうかしましたか?」

「外ではイヤです」


正直言えばバイレッタの記憶は皇宮の中庭で途切れている。

馬車に乗せられたような気もするし、風呂にも入れられた気がする。しかも夫の手ずからのような気もする。だが自分が朝になっても裸という点で、その後も貪られたのだろうか。正直判断がつかない。


アナルドは枕を抱えながら思案顔を作っている。

思案することなどない。イヤだと言ったらイヤだ。

二度とやりたくない。


「念書では時間も場所も指定しておりませんが。そもそも貴女が俺を煽るのも悪いのでは?」


 確かに一月の間に夫婦生活を行い、子を孕むかどうかという人権をまるっと無視した賭けをしている。その念書には時間も場所も指定していない。

 確かにそうだが、煽るというのは全くもって同意できない。


「煽っていません。絶対にイヤです」

「…善処します」

「断固拒否します」


絶対に折れないと意志を込めて見つめれば、やれやれと彼は息を吐いた。


「わかりました。朝食ができていますよ、体が辛ければ抱えていきますが」

「結構です、着替えますので」


話を変えようとしても言質はとった。

一瞥に出ていけと込めると、アナルドは無表情のままそっと出て行ったのだった。



#####



「随分と機嫌が悪いようだけれど、どうかしたか」

「叔父様!」


朝の夫の様子を思い浮かべてイライラとカップに口をつけていたバイレッタは顔を上げた。

カップはがちゃんと派手な音をたてたが、目を瞑る。


ダークグレーのスーツに身を包んだ叔父が、向かいの空いた席に着いた。


「てっきり彼も来るものかと思っていたが?」

「夫も多忙ですもの。四六時中妻に張り付いているわけにはいかないでしょう」

「ふうん? 彼ならずっと傍らに控えていそうだが…」


叔父の言葉に、なんとも言えずバイレッタは黙り込んでしまった。

自分の身辺調査を済ませていると知って、夫に仕事をしていることを隠すことをやめた。

小さな店を一つ任されて、今は人に譲っていること。その代わりに工場を任されて既製品の量産を行っていること。一部では軍の取引もあり、士官されるシャツを大量に納品していることなどを淡々と話した。それで眉を顰めるかと思えば、彼は無表情のまま静かに聞いていた。

妻が仕事をしているなど馬鹿にするか、利益を横取りするか、とにかく腹を立てるかいずれかの反応が返ってくると思えば実にあっさりとした態度だ。

だから、バイレッタは拍子抜けしながらも商談だからとアナルドにはっきりと告げた。すると今まで興味のない様子だったが、近くまで一緒に行くと駄々をこねた。


無表情な夫に駄々をこねられるとは、ある意味不気味だ。

二人の意見は平行線となり、バイレッタは勝手にしろと告げて家を出てきて今に至る。


もちろん馬車に乗り込んだのはバイレッタ一人だ。だが、なんとなく近くにいるような気がする。

とんだ忠犬を手に入れてしまった。飼い主の言うことを聞かないのだから駄犬かもしれないが。


「いつものお勧めを二つ出してくれ。バイレッタ、ところで今日は何の相談だい?」


給仕係に注文を付けると、叔父はバイレッタににこやかに向き直った。

納得はしていないようだが、夫が近くにいないことは察したのだろう。機嫌が上向いている。

分刻みに仕事をこなしている多忙な叔父に迷惑はかけられないとバイレッタは用件を口にした。


「デーファをご用意いただきたいのです、それも大量に」

「あんな穴ぼこだらけの石を? 一体今度は何を造るつもりだい」


デーファは帝国の南の山岳地帯で採れる多孔質の石だ。乾燥させると固くなるため古くから建材に使用されているが、削ってもどこまでも穴があり塞がることはない。

模様や材質に注目されていて南部の主要な石材のひとつに挙げられている。そこそこの値段はするのだが、叔父にかかれば大量に集めることなど朝飯前だろう。


叔父は面白そうに目を輝かせた。それだけで、バイレッタの交渉は上手くいったようなものだ。

叔父に交渉を持ちかける場合は、情報を小出しにしながら落としていく方が確実だ。最初から詳細を語ると裏から手を回されて最終的な目的に辿りつけないことが多い。


「それは後のお楽しみですわ。少し確かめたいことがありまして。最後は必ず叔父様の利益にもなりますわよ?」


バイレッタは不敵にほほ笑んで見せるのだった。

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