第39話 妻の意思を尊重する

バイレッタはいつの間にか中庭に降りてきていた。

茫然としながら、歩いているとふと置かれたベンチが目に留まって座る。

そうして詰めていた息を深々と吐き出した。


別に夫には何も期待していない。そもそも、男に期待することは学生の時代から止めた。誰かに頼って生きていかねばならぬような女にはなりたくなかった。男の言動一つで簡単に変わるような価値観に振りまわされるのは御免だ。

だというのに、なぜかショックを受けているようだ。

何に?


いつものように、娼婦扱いされたからか。容姿しか取り柄のない頭が空っぽな女に見られたからか。


両手で顔を覆って俯いていると、すっと影が差した。

顔を上げれば、見慣れた男が立っていた。


「叔父様…」


サミュズは黒に近い焦げ茶色の髪を優雅に撫でつけ、夜会服を身にまとっている。軍服ばかり見ていたので、少し違和感を覚えたが、そういえば軍の物資にも商会が貢献したのだった。随分と儲けさせて貰ったと叔父が笑っていたのを思い出す。だからこそこの祝勝会にも呼ばれているのだろう。


だが彼の翡翠色の瞳が翳っているのを見て、バイレッタは首を傾げた。


「可愛い姪を泣かせているのは誰だ?」

「まあ泣いていませんわよ。久しぶりの夜会に少しあてられてしまっただけで…」

「全く意地っ張りなところも姉さん譲りだな」


叔父は大股で近づいてくると、そっとバイレッタを抱き締めた。

夫の香りとは別の新緑を思わせる香水の香りに、少しだけ心が落ち着いた。慣れ親しんだ香りだ。


「これなら、誰に見られることもない。好きなだけ泣くといい」

「ふふっ、叔父様。私ももういい年になりましたわ、少女のように泣きませんわよ?」

「私にとってはいつまでも可愛い姪だよ」

「光栄ですわ」


昔から自分に愛情を注いでくれる叔父には感謝しかない。母に似ているからだと分かっているが、それでもバイレッタの話を聞いて商人になって店を持つという夢まで叶えてくれた。


叔父は黙ってバイレッタを見つめていたが、ふと首もとのネックレスに視線を移した。


「そのネックレスは黄柱石か…そういえばピアモンテ宝石店の店主に力添えをしたんだって?」

「叔父様はいつもおっしゃっておられますもの。競争意識がよりよい商売の発展につながるって。独占も停滞も何も生み出しませんものね?」

「まったくだからといってあんなやり手に入れ知恵しなくてもいいだろうに」

「あら、彼は善人ですわよ?」

「人となりは悪くない。ただ、抜け目がない。恐ろしく感もいい。お前が手助けしなくても十分に店をやっていけたよ」


父の病気で急に代替わりしたばかりで商売に苦労していたピアモンテ宝石店の店主にあれこれ世話を焼いてしまったことを言われているようだ。

なるほど、余計なお節介だったというわけか。

バイレッタが胸中で反省していると、不意に声をかけられた。


「何をしているんです?」


鋭く冷ややかな声が聞こえて、思わずバイレッタは背筋を伸ばしてしまった。

叔父が宥めるように、背中を優しくあやしてくれる。


「おや、これはスワンガン中佐殿」

「俺の妻から離れてもらいましょうか」

「叔父様ごめんなさい、誤解させてしまったわ」


叔父の胸をやんわりと押すと、彼はくすりと笑みを浮かべる。


「いいんだ、バイレッタ。なにより、妻を放って遊んでいた若造に批難される謂れはないな」

「目を離した隙に、愛しい妻の姿が見えなくなっただけですよ。それより、いい年をした男性が、人の妻に手を出していい理由にはなりませんよね?」

「愛しい姪を可愛がっていただけだが?」

「貴方のそういう態度が噂を広げていると自覚はありますか…」

「噂? 余計な虫が寄り付かないのなら構わないだろう」


叔父の昔からのスタンスだ。

毒をもって毒を制す。

噂には噂で対抗する。

だからこそ、これまでのバイレッタの悪い噂を否定せずに好き放題させていたのだから。


「まあ、こうして一番大きな害虫がくっついてしまったわけだが…さて、バイレッタとはいつ別れるんだ?」


一月後には、円満に別れる予定です、とはとても言える雰囲気ではなかった。


「俺は別れるつもりはありませんが。許可なら彼女の父親の准将閣下からいただいておりますし」

「人のいない間に勝手に婚姻を結んでおいて随分な言い草だな。私は認めるつもりはない」

「貴方にそのような権限はないでしょう?」

「面白い、若造がこの私にケンカを売るだと。私は彼女の師匠でもある。大切な弟子で血縁者だ。そちらこそ偉そうになんの権限があるというつもりか。8年間も放置した夫という立場だとしたらとんだ笑い物だが」

「それでも夫のつもりですよ。婚姻を結んでいるのは事実ですから。それに彼女のことは彼女が決めるべきです。俺は妻の意思を尊重しますよ」


いきり立つ叔父に、アナルドが静かに答えた。

だが、妻の意思を尊重するのなら賭けなどと言い出さずにさっさと離婚に応じて欲しいものである。


「なるほど、立派な心掛けだ。では、バイレッタ。さっさと身軽になっておいで」

「残念ながら彼女は今すぐ俺から離れられないんですよね」


それは念書があるからですよね!

とは、とてもじゃないが叔父には言えない。そんな賭けをしているだなんて叔父に知られたらバカなことをするなと怒られてしまうだろう。

商人たるもの勝算のない賭けを衝動的に行うなど三流以下だとでも言われそうだ。


だが勝ち誇ったかのような夫の表情も少し腹立たしくはある。

そんな誤解を招く言い方をしなくてもいいだろうに。叔父の神経を逆なですることにどんな益があるというのだ。


「叔父様、明日少し時間はございますか、少しご相談したいことがありますので」

「明日か…では、昼食でも一緒に食べよう。場所はいつものところでいいだろう?」


いつものところとは帝都にある叔父が経営している高級レストランの最上階の部屋だ。

大事な商談や接待に使う店でもある。

もちろん場所はよく知っている。


「はい、ありがとうございます。では失礼しますね。旦那様、戻りましょう」


バイレッタは立ち上がると、アナルドの腕をとって歩き出す。

夫は一応、無言でついてくるようだ。叔父はひとまずは黙って見送ることにしたようだ。

夫を刺激しないでくれることがありがたい。たとえ腹の中でとれほどの罵詈雑言を並べ立てていようとも表に現れなければ何も問題はないのだ。

バイレッタはただただ叔父の賢明な態度に感謝するのだった。

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