第3章 つきましては

第33話 初めての感謝の気持ち

どこにでもついてくるアナルドは隙あれば手を出してくる。

口づけや軽いおさわりぐらいならば、まあそこまで目くじらを立てるほどのことでもないが、下着の中にまで手を伸ばされるとさすがに止めざるを得ない。


祝勝会に向かう馬車の中でアナルドの手の甲をつねってやる。

手を引っ込めながら、夫は飄々と答える。まるで正義を口にしているようなそぶりだ。


「けれど、この1ヶ月は夫婦生活をしていいと念書に署名しましたよね」

「念書にサインはしましたが、夜もしつこいくらいでしょう?!」

「新婚生活とはそういうものだと聞きましたが」

「結婚してから八年も経っているのに新婚とは笑わせますわね!」


どこの新婚夫婦の話だ!

しかも自分たちを新婚と称するとは図々しいにもほどがある。

少なくとも我が国の話ではないはずだ。


夜だけでも十分なのだが、朝も昼も場所も関係なく体を繋げてこようとするので困っている。


「せめて、祝勝会が始まるまでは大人しくしてください」

「では、始まればいいのですね」


祝勝会が始まっていったいどこでオイタをするつもりなのだ。普通の夜会ならば、休む部屋を用意することもあるだろうが、祝勝会ならおおっぴらにそんな部屋を幾つも用意はしないだろう。

そもそも、そんな破廉恥な行為を人前でするつもりなどバイレッタには微塵もない。


思わずぎろりと睨みつけてしまう。

獣でもここまで盛るまい。

もっと冷静で冷徹で他人に興味のないと噂の夫は死滅してしまったのか。

欠片でもいいから、どこかに残ってはいないものか。


深くも考えず念書にサインしてしまった自分を呪い殺してやりたい。

向かう馬車の中で、バイレッタは夫の手綱を握るための方法を検討するのだった。



#####



祝勝会が始まる前から随分と疲れた。

煌びやかな王城の中に設けられた祝勝会の会場で、バイレッタは深々と息を吐いた。

参加している人々はなんとも華々しい。祝勝会というお祝いムードも手伝って、全体的に明るく楽しげな様子だ。

その中でバイレッタの表情は暗いのだから、さぞかし浮いて見えるだろう。その原因となった夫は、自分の横でしれっと立っている。


だが、バイレッタも暗い顔をしている場合ではない。今回着ているドレスは以前に経営していた店の新作だ。

戦時中はリメイクを中心にデザインで勝負していたが、戦争が終わったので路線を方向転換した。完全に店のオリジナルであり、値段も高い設定だ。

お披露目の場としては上々で、気合いを入れて臨んでいる。


典礼用の軍服に添えるような色調で、デザインに凝っている。細部までデザイナーと針子の手がこんだ今シーズン一押しの代物だ。

できれば、ここで話題になっておきたい。

どんなシーンでも対応できるデザインを提供できると印象付けておきたいところだ。


だが、隣に立つ夫を見て、自分の姿が霞むかもしれないと不安を覚えた。


会場に入ればさすがは中佐だ。

堂々とした貫禄と落ち着いた物腰に、周囲を圧倒している。

なんとも憎らしいが、美しさという点では会場随一だ。彼にはどのように着飾っても太刀打ちできない。


女の自分がなぜ敗北感を与えられるのか腑に落ちないが、素直に負けを認めたくなる程には格好いい。

典礼用の軍服が、ここまで似合うとは思わなかった。もともとある程度は格好よくなるように作られてはいるが、美が超越している。


バイレッタは今日はあまり商談に繋がらないかもしれないと内心でため息ついた。


「アナルド、ようやく来たのか」


親しげに話しかけられて振り返れば、アナルドと同じくらいの背丈の青年が立っていた。赤銅色の髪を丁寧に撫でつけ、優しい琥珀色の瞳を細めている姿は穏やかな好青年といった風貌だ。もちろんアナルドと同じ式典用の軍服に身を包んでいる。胸に輝く階級章は夫と同じく中佐だ。

今回の功績を讃えてもう一つ勲章が増えている。それも夫と同じだ。


「ああ、噂の奥方か。初めまして、私はジョアン=ガクレマスと言います。一応、彼の悪友でもありますので、以後よろしくお願いします」

「ジョアン…」

「なんだよ、挨拶くらいいいだろう。それより、今日はしっかりアピールしないとなかなか騒々しいぞ」

「わかってる」


心配げな表情になったジョアンに、アナルドは重々しく頷いた。

何か仕事上のトラブルだろうか。


「俺の妻はあちらで女の集いに参加中です。よければ、あとで紹介しますよ」

「お心遣いありがとうございます」


頭を下げれば、ジョアンはにこやかに笑って去っていった。

冷徹なアナルドの友人にしてはなんとも常識的な人物ではある。それとも夫の非常識さに付き合うにはあれくらい常識的でなければならないのだろうか。


「何か失礼なことを考えていそうですね?」

「とんでもございませんわ、旦那様。立派なご友人をお持ちで羨ましいと嫉妬しておりましたの」


感のいいところも義父そっくりだ。さすがは親子だとバイレッタは心の中で短息する。


「ひとまず、飲み物はいかがですか。アルコールは大丈夫ですよね?」

「ええ。ですが、軽いものでお願いいたします」

「わかりました」


近くにいた給仕係から飲み物を二つ受け取って、バイレッタに一つを渡してくる。やや透き通った果実酒だ。甘すぎず辛すぎない口当たりのよい発泡酒だ。

さっと選択できることに、彼のエスコートぶりに感心する。


どれほどの女の相手をすればこれほど簡単に選べるのだろうか。


「ありがとうございます」


彼は葡萄酒を選んだ。深紅の液体は先ほどのジョアンの髪色を彷彿とさせる。

噂の奥方、と彼は口にした。

どういう噂だろうか、とバイレッタはひっかかりを覚える。


単純に8年間も放置された妻ということだろうか。

それとも、別の意味を含んでいるのだろうか。


叔父や義父との仲を噂されているのは知っている。だが、噂はあくまで噂だ。決定的な何かを与えた覚えはないし、そんなつもりもない。

そもそも噂などあてにならないものだと知っている。特に軍の方で広がる噂など見当もつかない。

だがそのあてにならないもので足元を掬われるのも確かだ。


自身の苦い過去を思い出しながら、バイレッタは周囲の視線の種類について考える。侮蔑や嫉妬ならば簡単だが、どこか下卑た視線も感じる。

一口発泡酒を含んで、思案しているとアナルドが不意に顔を覗き込んできた。


「口には合いますか?」

「え?」

「女性はもう少し甘めの酒のほうを好むと聞きますが、あなたは甘い物は苦手でしょうから、こちらにしたのですが。あまり口には合いませんでしたか?」

「いえ、おいしいです」

「そうですか」


ふっとアナルドが微笑んだ。

いつもの甘い笑みだ。だが、バイレッタに向けられていた周囲の視線が一変したのを感じる。皆、息を詰めて信じられないものを見たかのような空気になっている。

先ほどまでの侮蔑も怪しげな視線もすべて驚愕というさざ波に変わった。


噂の冷徹で無表情の中佐でなくとも、役に立つこともあるものだ。

迷惑甚だしかった笑みに、バイレッタは初めて感謝の気持ちを向けるのだった。


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