第26話 直ちに帰還を求む

朝食を食べ終えて、身支度を整えればすっかり昼食の時間になっていた。

待ち合わせは玄関ホールなので、階段を下りていくとすらりと長身のアナルドが手持ち無沙汰に立っていた。

薄いグレーのジャケットに水色のシャツ、黒のスラックスという簡素な出立だが、彼は何を着ても気品がある。

仕立ての物自体もいいものだろうが、なるほどこれは女性が放っておかないという話も頷けた。


うちの製品を着てくれたら、いい宣伝材料になるに違いない。

商人魂がむくむくと持ち上がるが、必死に押しとどめる。

今日は工場へ顔を出して、新しい染料を試そうと思っていたのだが、工場経営者であることを隠したいバイレッタは何も欲しい物がない街へと向かう羽目になった。


困ったことになったと思いながら、階段を降りきると、不意に足をもつれさせてよろめいてしまった。

気が付いたアナルドがすかさず支えてくれる。

彼の細見の体躯は着やせするタイプらしく、しっかりとした逞しい腕で支えてくれた。昨日は一方的に翻弄されたので、実感することもできなかった。


「まだ、無理は禁物ですよ」

「なっ…貴方が手加減なさらないからっ」


羞恥で顔が熱くなる。初心者相手に、昨日の彼はやりたい放題だった。意識を失うように眠った後のことまでは知らないが明け方まで弄り倒された。

初心者相手に何が普通かはわからないが、体は悲鳴をあげているのだから無茶だったのだろう。


「貴女が魅力的なのが悪いのでは?」

「人をなじる前に、ご自身の理性をお叱りになさったほうがよろしいかと…」

「確かに仰るとおりですね、自重します。だが誘惑されては、なかなか難しいことではありますね」

「どこに誘惑する要因がありました?」


思わず胡乱な瞳を向ければ、夫はまるで困っていないように微笑む。

言葉の内容と態度にこれほど差が出る相手も珍しい。


「無自覚とは末恐ろしいですね。回数こなせば、そのうち落ち着くとは思いますが、しばらくは諦めてお付き合いください。賭けのうちですから」


好きにしたら、とも言えずバイレッタは思わず言葉を飲み込む。

それは賭けの一月の間に毎日好きなだけやって、飽きたら放置するということだろうか。

やはり最低な男だと認識を改める。


アナルドの腕をやんわりと押し退けてみると、びくりともしなかった。むしろ腰に回った腕の力が少し強まったほどだ。


「あの、放していただけます?」

「ああ、すみません。貴女に見とれていました。そのワンピースもステキですね。淡い紫がとてもよく似合っています…しかし、こんなに無防備で今までよく無事でしたね」


無事とはなんだ。

無体を働かれた記憶など、昨晩しかないというのに。

一瞬、過去の苦い記憶が頭をかすめたが、昨日の夫が行動したほどではないと思いなおす。


「貴方の頭に水を浴びせて正気づかせたいですわ!」

「はは、それも楽しそうだ。ですが今は外に馬車を待たせてありますので、残念ですが行きましょうか」


何が残念なのだろう。

本当に頭から水を被せてやろうか…物騒なことをつらつら考えながら、一方で感情のない冷血漢という事前情報通りの夫の帰還を切に願うバイレッタなのだった。

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