第22話 十分に突飛な内容
ふっと部屋の中に気配を感じて、バイレッタは眼を覚ました。
辺りはまだ真っ暗で、何も見えないが視線を感じるのだ。
ついと顔を横に動かすと、ベッドの傍らに立っている男がいるのが分かった。
思わず悲鳴を飲み込んで、ゆっくり体を起こした。
「初めまして、旦那様。こんな姿で申し訳ありません」
「ふふ、初めまして。もう深夜ですからね、寝着姿が当然ですよ。どうして俺が夫だとわかりました?」
低い声は存外、耳に心地よく響いた。
楽しげに笑うさまも、好感が持てる。
だがバイレッタには、横に立っている男が何か沸々と怒っているような冷たい印象を受けた。
何か気に入らないことでもあるのか、不機嫌を押し殺しているような。
自分の項がピリピリとする。
こんな感覚がするときは注意を要することが多い。困った客しかり、義父からの無理な仕事の押し付けという嫌がらせしかりだ。
「ここは夫婦の寝室だと言われました。堂々と寝顔を眺められる方など限られますもの。いつこちらにお戻りになられたのです?」
「屋敷に戻ったのはつい先程ですよ」
そういう割には簡素なシャツにスラックスといった出で立ちだ。軍服ではなく、平時の服装に違和感を覚える。たった今、戦地から戻ってきたとは思えない落ち着きようだ。
だが、そこには触れずに労う。
「お疲れ様でした。ぜひゆっくり休んでください」
「そのつもりですが、あなたとは早めに話をした方がよろしいかと思いまして」
まさか明日の朝に出ていこうとしていたことがばれているのだろうか。
失踪扱いにしてくれと、義母には頼んでおいたのだが。
背中に冷や汗を感じながら、バイレッタは殊更ゆっくりと口を開いた。
「こんな夜更けに、一体どのようなお話かしら」
「まあ終戦が決まった途端にされる離婚話ほど突飛な内容ではないことは確かですね」
怒っている。
これは相当に。
静かな声音はむしろ凪いでいる。どちらかといえば、機嫌がよさそうなと言ってもいいほどだろうが、なぜか激しい怒りを感じた。
バイレッタは舌打ちしたい気持ちになった。
顔を見るつもりもなかったので、手紙だけ送り付けてさっさと逃げ出すつもりだった。
まさか相手が引き留める方向に動くとは予想していなかったからだ。むしろ喜んで離婚に応じてくれるとさえ考えていた。
だがやり方を間違えたらしい。
こうなると、男の思考を読むためにももう少し彼を知る必要がある。
「申し訳ありません、旦那様。顔も見ずに前線へ向かわれるほどに多忙な方のご負担を少しでも減らしたつもりでした。お帰りになられても、お仕事でお忙しいでしょうし、あまり煩わせるわけにもいきませんものね」
「そうですね、確かに俺は仕事ばかりですし、私的な時間はほとんどとれないでしょう。ですが初めて戦場に届いた妻からの手紙でしたから、少々浮かれてしまったようだ。まさか離婚を切り出されるとは思ってもみませんでしたからね。焦ってしまったのは確かです」
まったく焦っていないような口調で静かに告げる。男はいったん言葉を切ると、こちらを探るように口を開く。
「俺と離縁したいとのお考えは今も変わりませんか?」
「ええ、それは…もちろん」
「顔も見たことがないという理由ならば、今こうして顔を合わせて話しているわけですし、成立しませんよね。それ以外にも何か理由がありますか」
「8年間も放っておかれれば、十分に離縁の理由になるかと思いますが」
「なるほど。ですが、戦時中という特例ですし、よその夫婦も同じようなものなのでは? しかも終戦直後にこのような話を持ち出すのは、戦場にいた夫を少しも労わろうという気がないんでしょうか」
もちろんお疲れ様だなとは思うが、別に自分が慰めなくても、噂の美貌がある夫なのだから引く手数多だろう。夫に興味のない自分よりもずっと適任がほかにいるのだから、できればそちらに任せたいと考えてはいけないのだろうか。
なぜ、自分に執着するのかわからない。
「旦那様こそ、顔も見たことのない妻など不必要でございましょう?」
「俺の立場上、妻帯者というのはとても都合のいいものなのですよ。これから軍の行事に参加しますが、同伴者が妻だと無用な争いは生まれませんからね」
なるほど、これが本音か、とバイレッタは内心でため息をついた。
つまりお飾りの妻がいたほうが、彼にとっては仕事がしやすい環境なのだろう。
そんなものやりたい人がやればいいのだ。
自分がつきあう義理はない。
だからこそ、彼が戻ってくる前に逃げる算段をつけていたのだが。
離婚にあっさり応じて、新しい妻を娶ってくれると考えていた自分の迂闊さに腹が立つ。
「ですが手紙の一つも書かず、8年間一度も顔を見せに戻ってこなかったのも事実です。なので、貴女の離縁したいという申し出を無碍にはできません。ですから、ここはひとつ賭けをしませんか?」
十分に突飛な内容ではないか、とバイレッタはすかさず思ったのだった。
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