FILE8 銃殺 5

 車が停まったのは某所に聳える国立病院だった。

 停車した途端に、隣に座る謀殺がきつく唇を噛みしめたのを銃殺は見て取った。

「――行きましょう」

 しばし逡巡したような間を置いて言う謀殺は微笑まない。鋭く、蛇のような目で前を睨み据えている。膝に置かれている手は力強く握られていて、あまりの強さに震えている。

 気付かない振りをして車を降り、数秒後に謀殺も降りた。最後に毒殺が車の鍵をかけたのを見届けて、無言のうちに病院へと赴く。

 自動ドアを抜けてエレベーターへ、二階、三階、四を飛ばして五階……銃殺にはこの病院に覚えがあった。謀殺とふたりきりで話す機会があれば、必ず彼が自身の持つ憎悪と共に語る男の、その居場所。彼の生涯の目的。殺人鬼になった理由。彼の渇望が叶う場所。

 六階、七階、八階、九階……なにを奪われても誰を喪っても立ち止まらなかった彼の、到達地点。ここに来るまで、彼が手放さざるを得なかったものはなんだ。人間であること、子供でいられた時間、信頼できる人間、人間を殺すことの躊躇、他者への憧憬、志を同じくする仲間、愛、興味、関心、最初の惨殺、撲殺、爆殺、――母親。全部、全部、この男さえいなければと、滅多に見せない憎悪を溢れさせて彼は語っていた。

 十階、エレベーターを降りて廊下を進むと、ひとつの人影が見えた。

「………………」

 壁にもたれて腕を組み、瞑想するような静謐さで閉眼していた女性は、銃殺たち三人の気配をいち早く感じ取り、そっと開眼してゆっくりとこちらを見た。

 病院には場違いな露出の多い恰好――タンクトップにショートパンツ、ハイヒールと生地の薄い上着、しかしそのどれもが黒い。

 ――喪服みたいだ。

 鮮やかな色彩を好む彼女がここまで徹底して黒に統一するということは、そういうことだ。

 そのための、今日、この場所なのだ。

「………………」

 腕組みをしたまま、彼女はその病室を指さした。

 臆する彼の背中をそっとひと押しする、残酷で、優しい仕種だった。

 彼女なら止めることもできただろう。

 謀殺の最初の協力者である彼女なら。

 しかし彼女は止めない。むしろ背中を押した。

 彼の心からの望みを理解し、応援していたから。

 残酷であろうと残忍であろうと、どんな結末が待ち構えていようと。

 肯定しようと、誓っているのだ。

 彼女を通過して、病室に入る。

 病室にしては小綺麗な……いや、一般的な思考を持つ一般的な人に訊ねれば、誰もここを病室だと認識しないであろう部屋、と言った方がいい。なにを一般的と言うかなど銃殺は知らないし興味もないが、だが、普通に想像する病室はこんなものではない。一体一泊いくらするんだ、この部屋は。テレビもある、机もある、ソファもある、ロッカーもある、冷蔵庫もある、洗面台もある、トイレもある、風呂場もある、窓際には花が飾られていて、絵画も壁にかかっているという徹底ぶり。なんとか病室であると認識できるのは、ベッドと、そこに横たわり無数の管を繋がれた人間がいるからだ。ご丁寧に規則正しい脈を記録する心電計があることで、ようやく認識を信じられる。しかし本題は病室の様子ではない。ベッドに横たわる人間――謀殺、否、蓮璉慶の父親、蓮璉明(あきら)そのひとである。

「………………」

 謀殺が蓮璉氏に近付くと、察知したのかおもむろに瞼を開く。流石、長年裏社会に通じたとされる人間だ。枕を高くして眠っても、敵の接近にはすぐに気付く――だが、あらゆる管があらゆる箇所へ繋がって満足に動けない今、気付いたところで無駄である。

 日に日に一滴ずつ、毒殺が作る最も苦しませて生かす毒。四肢も動かせず、内臓も機能せず、しかし身体は死を選べない。おまけに――謀殺からしてみれば最重要事項だ――脳、つまるところ意識は明瞭に機能している。管に繋がれ、四肢の不自由も、迫る内臓の悲鳴も、虚無しかないベッドの上だけの景色も、すべて鮮明に知覚できているのだ。そこまで明瞭ならば安楽死を選ぶこともできただろうが、残念ながら、それを伝える声も、動作も、氏には使えない。

 苦しませて殺したいから、徹底的に。

 存分に狂ってほしいと、謀殺が毒殺に依頼したのだ。

 ……と、いうところまで、銃殺は謀殺から聞いている。

 何故だか謀殺は銃殺にだけここまで開放的に喋ってしまうのだ。他人に口外するつもりは毛頭ないが、もしも銃殺が謀殺を裏切って敵勢力……もしくは蝶咲家の誰かに話すとしたらという危惧をしないのだろうと疑問に思ったものだ。まあ、その他大勢塵芥の銃殺の話になど、高貴なる蝶咲帝国の皆様が耳を貸すとも思わないが。

 ゆっくりと、謀殺が蓮璉氏に近寄る。床を踏みしめ、刻み込むような足取りだ。ここからでは謀殺の表情は窺えない。ただ、陽の光に向かう謀殺の背中が陰になって見えるだけだ。

 ベッドに辿り着き、気さくな風に、謀殺はベッドに腰掛けた。

「……、………………、…………」

 蓮璉氏はなにか言おうとした――ように見えた。なにしろ声帯も唇も舌も使い物にならないのだ。言葉どころか単音も出ない。表情筋も同様なので、氏がなにを感じているかも読み取れない。

「……父さん」

 謀殺が呼びかける。

 彼が氏をそう呼ぶところを、銃殺は初めて聞いた。

 いつも『あの男』とか『父親』とか、親しみのない呼称ばかりだったのだ。

 だからきっと、これで終わりなのだな、と直感した。

「僕のことが、わかりますか。わかりますね」

実の父親なのにどこまでも他人行儀なのは、彼の抱える氏への不信感と殺意ゆえ。それでも所作のひとつひとつに、心の奥底の願望が見えるのは、銃殺の勘違いだろうか。

 本当は、普通に父親を愛したかった、だなんて。

 銃殺もそうだ。銃殺だって、できることなら普通に母親を愛したかった。

 だが、謀殺の父親も、銃殺の母親も、子供の嫌悪の上に立っていた。

 愛そうにも愛せなかった。

 願望とは裏腹に、殺意は高まる一方だった。

「父さん」

 なにも応えない父親に言葉を投げかけるのをやめて、謀殺はベッドにするりと侵入した。管まみれの父親から、殺すために邪魔な管を剥ぎ取り、馬乗りになって、ぬるりとそっ首へ指を絡ませる。

「僕はずっとこうしたかった」

 最初は、真綿で包むように、柔らかく。

 美しい花を愛でるような優しささえ持って。

「僕はあなたを殺したかった」

 首に絡んだ指が徐々に力を滲ませる。

「ずっとずっと、憎んでいた」

 きち。

 きちきち。

 そんな音が聞こえてくるようだ。

「苦しめて、苦しめて、苦しめて苦しめて苦しめて」

 ぎちぎち。

 ぎちぎちぎち。

 見ていてわかる。謀殺は、あえて気管を狙って絞めている。

「生きているときも、死にそうなときも、死ぬ間際までも、ずっとあなたが苦しむように」

 ぎぢぎぢぎぢ。

 ぎぢぎぢぎぢぎぢぎぢ。

 最後まで苦しむよう。最期まで苦しむよう。

 丹念に、殺している。

「母さんが死んだのは一瞬だった。苦しみなく死ねて母さんも幸せだったでしょう――けれど」

 氏の、もとから半開き状態だった口から、空気が漏れ出る。が、音が零れることはなかった。

 明瞭な思考で、捨て駒とさえ言い放った息子に殺される気分はどうだろう。

 それもナイフや銃など、人間の文明を象徴する道具を用いない、極めて原始的な殺害方法で殺される気分は。

 知ったところで、銃殺には興味のない話だ。

「お前は楽に死ねると思うな」

 そう言った謀殺の顔は――微笑んでいた。

 優しい、人を懐柔し、安心させる笑顔――では、ない。

 その笑顔は慈愛に満ち、親愛に満ち、まるでこの世で最も愛おしいものを見るような恋しさを持ち、切なく締め付けるような痛みを含み、優しさよりも厳しさを、懐柔よりも拠り所を、安心よりも真心を――その表情を、もしかしたら、愛とさえ呼ぶのかもしれない。

 ――愛なんて。

 愛なんて、まやかしだ。

 ――愛しているのに。

 自殺を画策し、失敗したとき、銃殺の母親は泣きながら言った。

 そんな母親を、銃殺は心底気持ちが悪いと思った。

 愛しているなどという呪いを吐く女が、愛を免罪符に横暴を働く女が、気持ちが悪くて、殺してしまいたくて、仕方がなかった。

 殺せないのなら、自分が死んでしまいたいと思った。

 どうしても理解できなかった。

 愛というものが。

 どんなに心を注ごうと、いずれは薄れる感情を後生大事に持っているなど愚の骨頂だとさえ――だが、謀殺はずっと持ち続けていた。

 愛したかったという気持ちと共に、殺したいと、殺してやると、ずっと。

 それは銃殺が母親に対して秘めていた感情と同一で。

 家系さえなければ――いじめさえなければ――野望さえなければ――正義さえなければ――愛せていたのだろうか。

 憎悪していたように、愛せていた現実も、あり得たのだろうか。

 しかしそんなもの、今となってはなんでもない。

 銃殺は憎き母親を殺した後で、謀殺は憎き父親を殺している最中だ。

 後戻りができる状況とは――とても言えない。

 わたしは、愛したかったのだ。

 殺したかったのと、同じくらい。

「………………」

「…………、……」

 何分、何十分経ったのか、正確には記憶していない。

 だが、つい数分前まで脈を記録していた心電計が、一本の線だけを掲示したとき、銃殺は悟った。

 終わったのだ。

 銃殺の復讐も。

 銃殺の目的も。

 謀殺の復讐も。

 謀殺の目的も。

「……銃殺さん」

 か細い、縋る声だった。

「なに?」

 だから銃殺は極めて冷静に返した。

 宥め窘める声音は、本気で縋る者にとって嫌悪しか感じないことを知っているからだ。

「終わりましたね」

「終わったわよ」

 確認するように呟いて、謀殺はひとつ、嘆息を零した。

「感想を聞いてもいい?」

「……呆気ないですね」

「生きている人間が、全員ドラマチックに死ねる権限があると?」

「ありません」

 謀殺は浅い息の狭間で答えた。

 銃殺も、にこりと微笑んで言う。

「わたしも同じ感想だわ」

「銃を」

「え?」

「銃を貸してください」

「……死体撃ちでもするの」

「そんなところです」

「弾丸は入ってないわよ」

 つい先ほど、母親を撃ち殺した時に、銃殺は手持ちの弾丸をすべて使い切った。それを踏まえて先に言っておいてから、銃殺はスカートの下のホルスターにしまってあるリボルバーを手渡す。謀殺は

「ええ、予備は持っていますので」

 と言って、銃殺からリボルバーを受け取る。

 氏の遺体にまたがったまま、ひとつ、弾丸を装填し、撃鉄を起こし、


 銃口を、自らの頭へ向けた。


「え――」

「謀殺さん!?」

 毒殺と銃殺の声が重なる。

 静観を貫いていた毒殺にも、この展開は予想外だったようだ。

「私はずっとこうしたかった」

 驚きのあまり謀殺へ向けて手を伸ばしかけた銃殺を威圧するように、声音だけは穏やかに、謀殺は言う。

「ずっとずっと、終わりたかった。憎くて、殺したくて殺したくて仕方のない人間を殺すために生きてきて――私はまるで死に体でした。だったら死んだ方がましだと、何度も思いました。それでも父親をこの手で殺したいその一心で、死に体ながらも生きてきた……ああ、それがやっと、終わる……」

 満足げに、圧倒的な熱量で語る謀殺の姿を見て、銃殺は点と線が繋がる感覚を持った。

 どうして気が付かなかったのだろう。

 病室の前にいた彼女の黒ずくめの姿――そう、あれはまさしく喪服のようだった。今からここで死ぬ者のために喪に服していたのだと解釈していた。実際、その解釈は間違っていなかったのだろう――しかし、間違っていた解釈は『今からここで死ぬ者』だ。

 そもそも、何故彼女が謀殺の父親ごときのために喪に服す必要がある。彼女にとって特別な関係などひとつも持たない蓮璉明程度にだ。鼻歌混じりで人を殺戮せしめる彼女が、無関係な人間ひとりのために喪に服すなどという合理的な理由が見つからない。ならば、彼女が喪に服すに足る関係の者とは誰だ?

 それは例えば、彼女が唆し、けしかけ、煽動し、殺人鬼への道を指し示し、今ここで、生涯の悲願を達成した――彼女の友人。

 今ここで死ぬ謀殺のために、彼女は喪に服していた――!

 ――ちょっと待って?

 点と線が繋がったことで、銃殺は思い至ってはいけない真実に辿り着く。

 なら、そのきっかけを作ったのは誰?

 病室の前の彼女か? 唆し、けしかけ、煽動した。でも直接的な手引きはしていない。彼女は謀殺に協力していただけだ。

 毒殺か? 最も苦しませて生かす毒を、謀殺と協力して作り、投与してきた。でも彼はきっかけではなく過程を重視して協力者に選ばれただけだ。

 あるとき、謀殺は銃殺に訊いた。

「親を殺したいと思ったことはありませんか」

 銃殺は答えた。

「ええ、殺したいわ」

 そして銃殺も訊いた。

「謀殺さんも、親を殺したいのでしょう?」

 謀殺も答えた。

「ええ、殺したいです」

 それで、親を殺す決意を確かめ合って――昨日、銃殺は謀殺に電話をした。

「ねえ謀殺さん、わたし決めたわ。明日、母親を殺す」

 電話口の向こうで、謀殺は数秒黙って「委細承知しました」と言った。無機質な、淡々とした声だった。

 もしも。

 もしも謀殺が、憎き父親を殺したら――そのあと、完全犯罪よろしく犯人が自殺して終わるという結末を、最初から想定していたとしたら。

 きっかけを与えたのは――自分だ。

 わたしが母親を殺したから、謀殺は父親を殺し、最後に自分を殺すのだ――!

 手練手管で自らの手を汚さず人を殺す殺人鬼が、最後に殺すのが自分自身だなんて。

「では、我が同一、銃殺さん」

 謀殺は笑っていた。

 極上の、とびきり幸せそうな笑顔で、銃殺に笑いかけた。

 震える手も足も、もう、謀殺には届かない。

「貴女の幸せな未来に、息災と、殺害を」

 とんでもない呪いを遺して、謀殺は引き金を引く。

 呆気ない、乾いた音を響かせて――謀殺の身体は肉塊へと成り果てた。

 血液と脳漿を撒き散らし、反動のまま倒れた骸はつい先頃屠った父親の傍らへと添う。

 まるで、寝かしつけてつい一緒に眠ってしまった父子のように。

 最期を共にすることで、蓮璉明と蓮璉慶は、ようやく親子になれたのだ。

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