FILE7 刺殺 4

 ――――――。

 目覚めればそこは廃屋の一室だった。

 揺蕩う蝋燭の頼りない灯りが、唯一の光源。部屋を曖昧に照らしている。

 なるほど、誘拐にしてはありきたりな部類だろう。

 刺殺自身だって、誰かを誘拐するときは自室よりもこの廃屋のような、誰も手を出そうとしない場所を選ぶ。

 古い、埃の溜まったベッドと、ここに来るまでに刺殺を乗せていたであろう、業務用の手押し台が無造作に置かれている。

 まさかあの埃だらけのベッドでことを致そうなどとは思うまい。不衛生すぎる。そうであってくれ。

 それよりも。

 そんなことよりも。

 この部屋の異常こそが、危惧すべき事柄だろう。

 四方の壁に、少しの隙もなく写真が貼られている。

 否、壁だけではない。

 天上にまでも、写真の手が及んでいる。

 そしてその写真はすべて――モデルである御嶽シュヴァリエ、つまり刺殺のものだった。

 ご丁寧にも、異常性をさらに前面に押し出し、一緒に写っている人物の顔、そのすべてに、同一の女の顔がコラージュされていた。それは、男も、女も、老年も幼年も関係なく分け隔てなく――すべてである。

 写真の種類は、雑誌の切り抜きや写真集の正規のものと、視線の噛み合わない隠し撮りとあった。その中に殺人鬼としての彼の写真がないことは、刺殺に僅かな安心を与えた。

 まあ殺人鬼である自身を写真に収められるような不細工な真似はしないけれど。

 そんな不細工な真似はしない刺殺だからこそ――この状況はあまり芳しい状況ではなかった。

 こんな、気絶させられ、誘拐され、椅子に固定させられている状況は、たとえマゾヒズムという性癖を持つ刺殺でも、望んでいる状況ではないのだ。

 椅子に座らされ、両脚は椅子の前足に、両手はうしろへ回され、椅子もろとも。腰は背もたれを巻き込む形で縛り上げられている。

 左脇腹に痛みがあるのは、そこにスタンガンの電流を食らったからだろう。気絶した原因は後頭部を殴打されての脳震盪、といったところか。僅かに出血しているかもしれない。嫌な具合に水滴の気配がする。

 ここまで思考を巡らせたところで、刺殺の座す椅子の正面に位置する扉が、軋んだ音をたてて開いた。

 蝋燭の灯りでぼんやりと認識できる顔は、部屋を覆う写真群の、コラージュしてある顔とよく似ていた。――否、似ているのではなく、本人なのだろう。

 長いくせ毛に流行を取り入れたファッション、そして、右手に鈍く光る鋭利なナイフ。

 そして彼女は、喜色満面の笑顔で刺殺に抱きついた。

「逢いたかった、シュヴァ! 私の恋人!」

 鳥肌が立つ。

 私の恋人?

 刺殺には恋人などいない。

 いたとしても一夜の相手だ。そうなれば相手が次の夜に生きている可能性はないに等しい。

 もちろんモデルの御嶽シュヴァリエにもいない。

 交際の噂だけで次の仕事に影響が出るため、恋人は作るなナンパをするなと、マネージャーのヒメくんにも言われている。

 残念ながらナンパについては彼の言う通り従っているとは言えないが。

「シュヴァ、起きたときに私がいなくて寂しかった? ごめんね。でもほら、こうして会えたんだから、文句なんてないでしょう。お互い忙しいもんね……ううん、わかってる。私はその辺の女とは違って、聞き分けがいいもの。忙しいシュヴァを責めたりしないわ」

 全身を迸る緊張。

 迫ってきた唇に、刺殺は反射で顔を背けた。

「…………?」

 彼女の愛のキスは不発に終わった。きょとんとした表情の彼女は、しばらく首を傾げていたが、ようやく自分のキスが拒まれたことを理解したらしい。

「まあ、シュヴァ」

 妙に舌たるい声で、彼女は言う。

「今日は随分ツンデレさんなのね」

 今日は。

 それはまるで普段の刺殺と会っているかのような言い方だ。

 そんな事実はない。

 普段刺殺と交流を持っている女性は、殺人鬼クラブの同胞くらいだ。彼女はけして殺人鬼クラブの同胞などではない。新入りでさえないだろう。そもそも同胞ならば、彼のことを『シュヴァ』などと呼ばない。親しく『刺殺』と呼ぶはずだ。

「どうしたの? いつも通り、私に言うべきことがあるでしょう? ほら、言って。今日はどんな愛の言葉を囁いてくれる?」

 右手のナイフを見せつけながら、彼女は言う。

 そうか。

 彼女はよくいる困った子のカテゴリか。

 ストーカーの盗撮魔で、妄想癖……同時に虚言癖。

 様々な同業者も頭を悩ませている存在だ。

 今までにも遭遇してこなかったわけではないが、ここまで大仰な行動を取られたのは初めてだ。

「シュヴァ?」

 彼女はつう――と刺殺の唇を撫でる。ぶわりと全身が総毛立つ。指を噛み千切りたくなる衝動に駆られる。

「やめろ」

 刺殺は低く唸った。

 殺気のこもった声の威圧感に、彼女はようやく撫でる手を止め、目をぱちくりと瞬かせた。

「やめてよシュヴァ、いつもみたいに私を呼んでよ。恋人でしょう」

「きみは恋人じゃない」

 刺殺の殺気に気圧され、彼女は二、三歩後退る。

 しかしすぐにまた駆け寄ってきて、刺殺の頬を殴った。ナイフは使わず、ありのままの拳である。ナイフの使い道は別にあるのかもしれない。もしくはただの脅しか、ナイフの正しい使い方を知らないだけか。

「駄目よシュヴァ。どんなに気心知れた恋人同士の会話でも、その冗談は許されないわ」

 二発、三発。

 殴って満足したのか、また彼女は恍惚とした表情で刺殺の頬を撫でた。愛しげに、何度も何度も。

「私と貴方は恋人同士なの。だから砕けた冗談だって言っても許される。でも、私を傷つける冗談は駄目よ。そんなことを言ってふたりの関係に罅が入ったら、それは悲劇になってしまうわ。愛し合う恋人はハッピーエンドじゃないとね。ね? 私を愛しているでしょう? だから言って、愛してるって。いつもみたいにキスをして、愛して……」

 なんだこの子は。

 刺殺は我が目と我が耳を疑った。

 こんなに拒絶を示しているというのに通じない。

 刺殺の言葉は彼女に少しも届かない。

 こういった趣旨のファンレターを貰ってこなかったわけではない。使用済みの下着や猥褻なものが送られてきたこともある。そんなことをしでかす人間の心は刺殺にはわからない。直接的な害を被ってきたわけでもないし、モデルの自分はどこかで他人事であるという意識があった。

 実際に被害に遭えばわかる。

 どんなにモデルの自分は殺人鬼の自分と違っていても、結局は同じ延長線上の自分なのだから、なにも変わらない。この状況をどうにかして切り抜けなければならない。ほかならぬ、自分自身で。

 妄想と現実の区別がつかない人間とはここまで危険なものなのか。

 狂人と殺人鬼、この場合まともなのはどちらだろう?

 愛を語る狂人と、愛を騙る殺人鬼、どちらの愛が本物だろう。

 ――どちらも、本物であったところで、独善的な愛でしかない。

 刺殺は、口元だけで、薄く微笑した。

「シュヴァ? どうしてなにも言ってくれないの?」

 なにかを言えば、彼女を怒らせるか喜ばせるかの二択。ならば第三の選択で黙っているべきである。

 愛の言葉を囁く相手でも、侮蔑の言葉を投げかける相手でもない。

 刺殺は少々身をよじった。

 しかしその僅かな動作を機敏に感じ取った彼女は、優しく、力を込めて抑えつけた。

「抵抗しないでね、シュヴァ。私、貴方にだけは乱暴したくないの」

 ここに連れてくるにあたってスタンガンを使っておいてどの口が言う。

 だが彼女にとっては正当性のある、理路整然とした主張なのだろう。

 ――抗ってもいいが、抗い方を間違わないようにね。

 誰の言葉だ。

 誰に言われた?

 思い出せない。

 だが確かに――抗い方は間違えてはいけない。

 抗い方とはなんだ。

 彼女の望む甘い言葉を囁き、隙を見て殺すことか?

 一時だけでも、彼女を愛した振りをすることか。

 しかし――そんな自らの心を殺すやり方を、殺人鬼である自分が許すか?

 否、許さない。

 殺人鬼が自分を殺してどうする。

 ――本能に背くな存分に狂え。

 謀殺が掲げる殺人鬼クラブの信条。

「そうだ、シュヴァ。前に本で読んだんだけどね、恋人の血を飲む描写があったの。それは同性愛なんて扱う馬鹿げた気持ちの悪い小説だったけれど、その描写は私好きだったわ。しかもそれは経血だったの。恋人の経血を飲むなんて、官能的だと思わない? 私は今、生理じゃないから経血を飲んでもらうことはできないけれど、血液を飲んでもらうことはできるわ――」

 脅すようにちらつかせていたナイフを、また刺殺が見やすいように掲げた彼女は、長々とそう語って、自らの人差し指を切った。

 たらたらと流れる赤い血が、鈍く彼女の指先で輝く。

 その指を、刺殺の口元へあてがった。

「ほら、舐めて」

「………………」

「舐めてよ、シュヴァ――舐めなさい!」

 無理矢理に口腔内へ侵入してきた彼女の人差し指、そして血液に――刺殺の情欲は猛りきった。

「い――――っ」

 走る痛覚に引いたその手には、人差し指がなかった。

「な……んで」

「うん、やっぱり女の子の肉は柔らかいね……でも俺は、レアよりミディアムの方が好きだな――」

 言って、ぷっ、と刺殺は彼女の指を吐き出す。

 自由になった手をくるくるとまわし、それから脚を拘束している縄をしゅるしゅると解く。

「モデルとして外聞が悪いから、俺は自分がマゾヒストだってことを隠してたんだ。ヒメくんにも隠すように言われたしね。で、俺から言わせれば、きみの緊縛はだいぶ手ぬるい。すぐに抜け出せるレベルだよ。でも、きみをあまり刺激したくなかったから大人しくしてた。そしたらご丁寧にも俺に血をご馳走してくれたから――はじけちゃった」

 にっこりと嗤う刺殺の口からは、血液が一筋流れていた。

「今夜のディナーはきみだよ、マドモアゼル」


 ◆◆◆


 平常通りの流れでいくのなら、刺殺は彼女――刺殺の恋人を名乗っていた、結局名前もわからなかった彼女――と交わりながら刺し殺し、最後にその肉を食べるはずだった。しかし刺殺は彼女を抱くことなく殺し、食事へ移った。

 食事のために行った作業でわかったことだが、彼女はどうやら処女だったらしい。

 つまり彼女は、清らかなまま天へ召されたのだ。

 それが幸福なことなのか不幸なことなのか、刺殺は一生、理解することはない。

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