FILE5 惨殺 7
走る。
惨殺は走る。
どこへ向かっているかもわからない。
いつからか流れ始めた涙は頬を伝い、顎まで達して落ちてゆく。
こういうとき、同じ年頃の少年少女はどうするのだろうか。
父や母を、呼ぶのだろうか。
だとしたら――惨殺は誰を呼べばいい?
父は自分を溺愛していたけれど、もう殺人鬼になってしまった以上、頼ることなどできない。
母はけっして助けてくれないだろう。そもそも自分の生んだ子でさえない、愛する者を奪った女の子供なのだから。
だったら――本当の母親は?
本当の母親だったら、今の自分を助けてくれるのだろうか?
すべてを許し、受け入れ、抱きしめてくれるだろうか?
否。
無理だ。
たとえ本当の母親がいたとしても、今の自分を許すことなどできないだろう。
だって、自分は殺人鬼なのだから。
殺人鬼は、許されるべきではないのだから。
人を殺すことは、悪いことだから。
だから、惨殺は呼んだ。
自分を赦し、受け入れ、抱きしめてくれるであろう人の名前を。
「――――鷹姫さんっ!」
綺麗で、美しくて、憧れで。
彼女を呼ぶことさえも間違いであることは承知の上で、彼女の名を呼んだ。
「鷹姫さん! 鷹姫さん! 鷹姫さん!」
ぼくを許してください。
ぼくを受け入れてください。
ぼくを抱きしめてください。
ぼくを――愛してください。
いつからか住宅街を抜け、様々な店舗が並ぶ商店街を抜け、大きな河原へと辿り着いていた。
青々とした草花が生い茂り、傾斜はなだらかだ。
泣き疲れ、走り疲れた惨殺は、座り込んだ。
泣き疲れても涙は止まらないし、走り疲れたから息は完全に上がっている。
流れる涙は拭っても拭っても溢れてくる。
何故人間は感情が昂ると涙が出てくるのだろう。
涙なんて枯れてしまえばいいのに。
ぼくなんて、いなくなってしまえばいいのに。
「――――――」
遠くで大きな声でなにかを叫んでいる人がいる。
「――――!」
だんだん声は近付いて、叫ぶ内容も明瞭になってくる。
「――さつっ!」
いいなぁ。
ああやって、誰かに名前を呼ばれるのは、羨ましいなぁ。
「ざんさつっ!」
――え?
「惨殺!」
叫び声の内容は、惨殺を呼ぶものだった。
まさか普通の家庭で、子供に『惨殺』などという物騒な名前をつける親などいないはずだ。
つまり、あの声は、ぼくを呼んでいるのだ。
思わず、惨殺は立ち上がった。
走った疲れはまだ癒えていなかったが、それでも奮い立たせて、立ち上がった。
「惨殺っ!」
声の主は、毒殺だった。
顔の口元を覆うガスマスク。ぼさぼさの髪。くたびれたシャツやジーンズの上に白衣を羽織っている。
「毒殺さん?」
「惨殺!」
立ち上がった惨殺に気付き、小走りを本格的な走りに移行した毒殺は、すぐに惨殺に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「毒殺さん、毒殺さん」
「うん、どうした?」
「どうしてぼくがここにいるって……」
最初は気丈に振舞って、なんともない風を装いたかったが、毒殺を見たら安心して、また涙が溢れてくる。声も涙交じりになってしまう。
「見てたんだよ、お前が誘拐されるとこ。俺はお前がほっとけないから、見てたんだ」
「見てたなら、助けてくださいよぅ」
「馬鹿言え。すぐに走り出した車を追いかけられるわけがないだろう」
「それはそうだけど……」
「でも、ちゃんと見つけられてよかった。誘拐犯、殺したんだな」
「殺しました。だって、ぼくは、殺人鬼だから……」
自らを殺人鬼と自称したら、毒殺になにか言われるかと思ったが、毒殺はそんな無粋なことは言わなかった。代わりに、惨殺の目線に自分の目線を合わせて、軽く抱きしめた。
背中を優しく撫でたりぽんぽんと叩いたりした。
それは、惨殺が、ずっと欲していた優しさだった。
「そうだな。お前は、殺人鬼だ。お前は殺人鬼で――俺の同胞だ」
毒殺の言葉もまた、惨殺が欲していた言葉だった。
誰かと繋がっていること。
それが、惨殺の一番欲しいものだったのだ。
「帰るか、屋敷に」
「……はい……」
惨殺は涙をこらえた鼻声で、小さく頷く。
殺人鬼になる前にはなかった『ただいま』を言える家へ、帰るのだ。
◆◆◆
午後三時になる少し前。
惨殺と毒殺は、謀殺の住む屋敷、その一室に設置されているソファに座って話をした。
今頃大広間ではこどもの日を祝って、遊殺を中心に楽しくパーティーのようなおやつの時間が開催されていることだろう。
おやつをすべて遊殺に譲る約束をしてしまった惨殺は、おやつへの欲求を逸らすために――そして直前、遊殺の殺人行動を見て悪くなってしまった気分を和らげるため、別室へと移動していた。
「お前、本名はなんていうんだ?」
「毒殺さんこそ、本名はなんていうんですか?」
問いを問いで返された毒殺は首を傾げた。
「ない。俺はもう死んだことになってる人間だからな」
「へえ」
だったらぼくも教えません。
と、意地悪く言ってみたものの、やっぱり気が変わって、惨殺は口を毒殺の耳元へ寄せた。
「菊池氷太です」
「ふうん。教えないんじゃなかったのか」
「気が変わったんです」
「子供の気移りは激しいな」
「当たり前です。子供なんですから」
くすくすと笑い、再び柔らかなソファへ身を沈めた。
「菊池氷太……、菊池、菊か」
毒殺は誰にともなく呟いてから、惨殺へ向いた。
「お前のコードネーム、『惨殺』はな、前にもそういう殺人鬼がいたんだよ」
「へえ?」
「そいつはもう死んじまってる。だからお前は二代目の『惨殺』なんだ。俺はあまりお前のことを『惨殺』と呼びたくない。呼びたくないから、お前のことは別の名前で呼ぶけど、いいか?」
「…………ぼくに似ている人って、その人ですか?」
「そうだ」
「ふうん」
毒殺は惨殺を通して前の『惨殺』を見ている。
父親も、菊池氷太を通して不倫相手を見ていた。
似ているように見える構図だが、しかしこのふたつには明確な違いがあるように、惨殺は感じた。
少なくとも、毒殺は惨殺と前の『惨殺』とを割り切って見ているようだ。
そうでもなければ、別の名前で呼ぼうなどと発案したりしないはずだ。
「キク」
毒殺はくまだらけの目元だけで笑って、惨殺の頭を撫でた。
「これから、俺はお前のことをキクと呼ぶが、異論は?」
「ないです、毒殺さん」
◆◆◆
こうして、美少年は人生の憧れを見つけ殺人鬼となり、帰る場所を得た。
どんな悲惨な終わりを迎えようと、きっと彼は殺人鬼と成ったことを悔やむことはないだろう。
美少年の一生はこれからも続いていく。
FILE5 惨殺 完
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