FILE5 惨殺 6

 地下室から出た惨殺は、そのまま真っ直ぐ、自分に与えられた部屋ではなく――玄関を抜けて外へ出た。

 与えられた部屋を自分の部屋と認識できるには、まだ時間がかかりそうだ。

 毒殺のせいでむしゃくしゃした気持ちを、殺害という形で昇華しようと思ったのだ。

 赤の他人を殺そうと思ったのだ。

 しかし玄関を出て、屋敷の塀から外へ出て、途端に惨殺は愕然とした。

 そこは勝手知ったる平凡な街ではないことを思い出したからだ。

 殺人鬼クラブに加入するとき、生まれ育った町とは高速道路を挟まなければならないほど遠い土地へ越してきたことを、毒殺との口論で気持ちを乱されたことにより、忘れていた。

 これでは誰かを殺す前に自分が死んでしまう。

 あの忌々しい毒殺の言ったとおりになってしまう。

 ――屋敷に戻る?

 否。

 そんなことをすれば毒殺が嘲笑うことだろう。

 彼が笑ったところなど、先ほどの口論からでは微塵も想像できないけれど。

 そもそも自分は殺人鬼になってまだ一週間しか経っていない。

 初めての殺人から、まだひとりしか殺していない。

 その程度で、自分はもう立派な殺人鬼になったつもりでいた。

『殺戮家』――尾鷲鷹姫に憧れて、彼女から往くべき道を示されて、有頂天になっていた。

 あの忌まわしい家から離れられて、浮かれていた。

 まだこの越してきた住宅街にも慣れていないのに、何故外になど出ようと思ったのだろう。

 思い上がりも甚だしい。

 時間が経てば経つほど、自分の行為が幼いものだという自覚が沸き上がる。

 十歳。

 子供だ。

 当然だ。

 大人の庇護なしで、生きていけるほど強靭ではない。

 謀殺が保護という形で背後の屋敷へ住まわせてくれなかったら、それこそおしまいである。

 野垂れ死ぬのが関の山だ。

 そういえば小学校にも行っていない。

 まあ、あんな殺人事件が起これば、休校になっていても不思議はないが。

 今はゴールデンウィーク。事件が起こったのが一週間前なのだから、あの小学校の児童たちは超大型連休を満喫している頃だろう。満喫して、飽きてきた頃だろう。

 あの小学校は。

 あの学区内は。

 いまごろ、どうしているのだろう。

 未だ捕まらぬ犯人を恐れて、防犯を呼び掛けているのだろうか。

 あの、美しい殺戮家を恐れて。

「……ううん、もう、ぼくには関係ない話だ」

 そう、関係ない。

 あの惨劇の生き残りは、殺人鬼になりました。

 それでおしまい。ちゃんちゃん。

 ――と、そう簡単にいくものではない。

 一瞬。

 ほんの一瞬で、惨殺は目の前に停まった車の後部座席に押し込められた。

「え――」

 誘拐。

 だろうか。

 いや、憶測では追い付かないほどの速度で、これは誘拐だと悟った。

 すぐに車は発進する。

 惨殺は初めて誘拐されて一週間で、二回目の誘拐を体験している。

 経験はどれだけあっても困らないというが、犯罪の被害者においてはその格言は当てはまらない。当てはまってたまるか。

 惨殺にとって幸運だったのは、一週間前の誘拐と違って今の惨殺は拘束されていないということと――手の平にしっかりと、鷹姫からもらったナイフが握られていたことだった。

 ナイフと言えば、食べ物を切るためにあるけれど、持つ者が変われば切るものも変わる。

 ナイフは人を刺したり切ったりするためにあるのだ。

 だから、惨殺はさしてパニックも起こさず、冷静に、運転している誘拐犯の首筋を一閃した。

 たったそれだけで。

 ただ首筋にナイフの刃を走らせただけで――誘拐犯の命は奪われ、車の窓に真っ赤な装飾が施された。

 切られた際身体が強張ってアクセルを思い切り踏みつけたのか、車はどんどん加速していき、自由の利かなくなったハンドルはあらぬ方向へ逸れ、車体はそのままガードレールに衝突した。


 どん。


 と金属が大きな衝撃を受けたときの音を聞いた。

 耳が痛い。車が受けた衝撃は多少なりとも惨殺にも影響を与え、惨殺は後部座席のクッション部分に身体を強く打ち付け、絶息した。

「かはっ……」

 運転席の誘拐犯は、一度仰け反り、反動で正面に倒れた。

 赤い血潮にまみれながら、ハンドルに突っ伏した。

 気の抜けるクラクションの音が響き渡る。

 クラクションで正気に返った惨殺は、周囲に人が集まる前に逃げ出さなければいけないと感じ、急いでドアに手をかけた。

 チャイルドロックがかかっている。

「くそっ!」

 思わず口汚い言葉を使ってしまったが、それが惨殺の心情を明確に表す言葉――今まで美少年として偽り続けてきた彼の、心からの言葉だったかもしれない。

 しかし惨殺は諦めなかった。

 手にはまだ、鷹姫からもらったナイフが握られている。

 しかもそれは、ちょっとやそっとでは壊れることはないほど頑丈そうだ。

 だから惨殺は、ナイフのハンドル――そこの集中点。

 バッドキャップで、窓ガラスを強かに突いた。

 一度目は駄目だった。

 ならば二度目。それが駄目なら三度目。

 そうして何度も、ガラスが割れるまで。

 突く。突く。突く。

 突いて、突いて、突いて。

 何度、いや何十度めの突撃かはわからなかったが、ようやく、窓ガラスは割れた。

 せっかく鷹姫からもらったナイフの、バッドキャップの部分が少々歪んでしまったことを気にしつつ、惨殺はもう廃車にするしかない車から脱出した。

 現在地はわからない。

 きっと謀殺の屋敷から、遠い場所に来ていることだろう。

 少なくとも、子供の足では戻れない場所に来ているに違いない。

 ここでようやく、惨殺は混乱した。

 パニックに陥った。

 ――どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 ぼくはもう帰れないかもしれない。

「あ……あぁ、う、うぁ……っ」

 迷子になったときの最も適切な行為はその場から動かないことである。

 しかし、惨殺はそんな適切な行為なんて知らないし、不安と混乱でめちゃくちゃになった思考でそこまで考えが及ぶわけがなかった。

 震える足はそのまま道を進み――いつしか走り出していた。

 どこかへ行こうと、この場から逃れようと、走り出していた。

 事故が起こったあと、やはりそこには人だかりができていた。

 窓ガラスから飛び出して走り出した惨殺に気を留めた人物が、彼を引き留めようと彼の腕を掴もうとしたが、しかしそれは叶わなかった。

 惨殺が自身を掴もうとした腕を切りつけ、その腕から逃れたからだ。

 幸運にも命を喪うことはなかったが。

 被害者の意識が惨殺ではなく自身の腕に逸れた隙を突き、惨殺は人ごみから脱出を果たし、いずこへと行方を眩ませた。


 ◆◆◆


 ちなみに。

 惨殺は気が付かなかったが、惨殺を誘拐した誘拐犯は彼の実の父親だった。

 忌まわしき事件のあと、消息を絶った最愛の息子を探しまわっていた父親だった。

 どうやって手がかりを掴んだかは今となっては知るすべがないが、最愛の息子を見つけた彼は、思わず声をかけるより先に手が出てしまった。

 誘拐するかの如く、息子を乱暴に車に押し込んで、我が家へ帰ろうと試みた。

 しかし試みは大きく外れ、我が家へ帰る前に、彼は息子に殺された。

 その死に様は、まさしく惨めな殺され様であっただろう。

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