FILE5 惨殺 3

「あの子が生き残ったからなんだというの? 私には関係ないじゃない」

 応接室でイライラとした声で教員へ向かうのは、氷太の便宜上の母親である菊池夫人だ。

「関係がないって……貴女の息子さんだけが、あの教室で無傷だったんですよ。いえ、無傷どころか、生きていたのがあの子だけだったのです」

「関係ないわ。だってあの子、私の子じゃないもの」

 菊池夫人は吐き捨てた。

「夫の不貞の子よ。そんな子、どうでもいいに決まってるじゃない。いっそあの子も死んどけば良かったのよ」

「それは流石に」と諫める声にも、菊池夫人はまったく頓着しない。

 本当にそう思っているのだ。

 知っている。

 もちろん菊池少年は知っている。

 自分が彼女と血が繋がっていないことも、彼女が自分を愛していないことも。

 不貞の子となればそれは当然だろう。

 愛していないのではない。愛せないのだ。

 細かい経緯を菊池少年は知らないが、きっとこういう筋道だろう。父親は不貞を働き、その結果子供を身ごもらせてしまった。相手の女性のことは知らないが、菊池少年の容姿を見る限りは美しい人だったに違いない。しかし相手の女性は、菊池少年を生んだはいいものの、その責任と育児をすべて父親へ押し付けた。結果、父親の不貞は露見し、夫婦仲はおよそ最悪と言ってもいい状態にまで陥ってしまった。それでも離婚しないのは、お互い離婚してもデメリットしかないからだろう。

 菊池夫人は高校を卒業してすぐ結婚し、専業主婦になったので経済的余裕がない。

 父親はひとりで子育てなどできず、生まれたばかりの菊池少年の面倒を見られるほど時間的余裕はない。

「氷太がいてくれて嬉しいけど、ならあんな女と結婚なんかしなければ良かった」――自身の発言がどれだけ正しく子供に理解されているかなど、大人は案外わかっていない。

 もはやこの夫婦間に愛はなく、荒み切った家庭が誕生してしまった。

 菊池少年が母親と血が繋がっていないことを知ったのは五歳のときだ。

 不貞の子とはいえ引き取ったうえではそれなりに対応しなければならず、菊池夫人は相当な無茶をして菊池少年を育てた。

 仕事から帰ってくるたびに子供を甘やかし、ときにはお菓子や玩具などを勝手に買い与える夫に、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えていたに違いない。

 けれども、子供に罪はないと言い聞かせて、子育てを行ってきた。

 しかし彼女は気付いてしまう。

 時を重ねるごとに自分ではなく見知らぬ女性に似て美しくなっていく子供に。

 それに気付いた瞬間、不安定なバランスで保たれていた彼女の我慢が崩壊した。

 飲んでいたビール缶を子供に投げつけ、五年前からの恨みをすべて子供にぶつけてしまった。

 当時の菊池夫人の発言はあまりに聞くに堪えず、とても表記できるものではない。

 それは嫉妬からだろうし、あるいは憎悪からだろうし、あるいは憤怒からだろ

うし――もしくは、そのすべてだろう。

 彼女にとって不運だったのは、その直後に夫が帰ってきてしまったことだ。

 額を押さえて泣き叫ぶ子供と、叫びながら子供を苛む妻。

 ここで彼が菊池夫人に駆け寄ったならば、その後は変わっていたかもしれない。

 不安定なバランスながらも、まだ家族としてやっていけたかもしれない。

 しかし夫は菊池夫人ではなく、浮気相手の女性に似てきた息子へ駆け寄った。さらに、菊池夫人を激しく叱責したのだ。

 そのときの菊池夫人の絶望は計り知れない。

 ああそうか。

 と。

 夫は愛し合って結婚した自分よりも、浮気相手との間に生まれた息子の方が愛しいのか。

 と。

 菊池少年も、幼いながらも理解した。

 母親と自分に血の繋がりがないことを。

 母親が自分を愛してくれることはないのだと。

 その日から、菊池夫人から菊池少年に対するネグレクトが始まった。

 お互いが、ただそこにいるだけの存在となった。

 菊池夫人から食事を与えられることはなかったが、その分は父親が用意してくれたので、菊池少年が飢えることはなかった。例えその食事は父親のいる時間にしか与えられず、父親のいない朝から夕方にかけては道端の草を食むほどの空腹に襲われていたとしても。

 そんな無責任な父親は、ひどく菊池少年を甘やかした。

 休みのたびに菊池少年を連れ出し、遊園地や動物園に行った。お土産も買い与え、いい父親ぶりを発揮していた。

 その可愛がりぶりは、常軌を逸していた。

 頻繁に菊池少年の動向を知りたがる。いじめが発覚すれば烈火のごとく怒り、いじめっこの家にまで押し掛ける。小学校では持ち込みを禁止されているにも関わらず、連絡用端末機器を持たせ、電源を必ず入れて持ち歩くよう強制する。端末機器の履歴を勝手に見、内容について詰問する。

 過保護ゆえの過干渉。

 菊池少年は、ネグレクトと過干渉の板挟みに遭っていた。

 ――――――。

 ――――――――――――。


 ◆◆◆


 夢見心地から逃げ出すように瞼を開くと、そこは保健室にベッドの上だった。

 賀山先生がおかしな顔をして自分の顔を覗き込んでいる。

「ああ、氷太くん、気が付いたのね……よかった。意識はしっかりしてる? なにがあったか、思い出せる?」

「いえ……」

 嘘をつく。

 首筋に残る鈍い痛み。

 記憶は鮮明だ。

 殺戮されたクラスメイト。血塗れの教室。そこにたったひとり佇む女性――尾鷲鷹姫。

 美少年であるぼくとは違った美しさを持つ――とてもとても、綺麗な人。

 途端、ぽっと頬が熱くなる。

 ベッドの布団に顔を埋めて、手足がせわしなくパタパタと動く。

 なんだ。

 なんだこれは。

 こんなことはついぞ経験したことがない。

 あの人のことを思うだけで緊張してしまう。頬が緩んでしまう。

 ならばあの人のことを考えなければいい――しかし無駄な足掻きだ。

 忘れられない。鮮烈に浮かび上がる凄惨な微笑。血塗りの舞台に立つ艶麗な肢体。

 どうしようもなく、感情を、感動を、思考を、支配される。

 目を瞑れば浮かび上がる、夢のような光景。

 あの人は、ぼくに、そちら側へ行く手を差し伸べてくれた――。

 ――もしもきみがこちら側に来たいと切望するなら――

 ――僕はそれを叶えよう――

 いつ?

 それはいつ叶えてくれるの?

 ぼくは今すぐにでも、それを叶えて欲しいのに――!


「氷太くん!」


 夢は霧消した。空気の読めない養護教諭を心底恨めしく感じた。

「どうしたの? 顔が赤いわ。まさか熱でもあるんじゃ……」

「いえ、大丈夫、大丈夫です……」

「でも……」

「大丈夫ですってばっ!」

 思わず怒鳴ってしまった。慌てて口を押えても、出てしまった言葉は取り戻せない。

 賀山先生はほんの少し目を見開いて、次の瞬間、強引に菊池少年の両頬を片手で掴んだ。

 ぎり、と。

 爪が頬を、乱暴に締め上げる。

「あ……っ、……え?」

「どうしたのかしら」

 低く、最大の罪を咎める声で、賀山先生は言う。

「どうしたのかしら」

 同じ言葉を、繰り返す。

「どうしたのかしら、氷太くん。菊池氷太くん。あなたがわたしを拒絶するなんて。あなたがわたし以外を想って頬を染めるなんて。そんなこと、あっていいはずがないのよ。だってそうでしょう? 担任の教師よりも、偽物の母親よりも、本物の父親よりも、あなたはわたしを親しく、頼りに思っているはずなのだから。そうなるようにこの三年間をかけてきたのだから」

 三年をかけて、あなたがわたしのものになるように仕向けたのに――。

「――――っ!」

「ねえ氷太くん。あなたはわたしの理想の男の子だわ。美しい顔、細い首、未成熟な四肢……どれをとっても満点。花丸をあげたいくらい。でもどうしてかしら、あなたの心はわたしに向かない。どれだけ庇護してもどれだけ擁護しても、どんなに優しい言葉をかけても、あなたはまるで動じない。人の心だからそう易々とはいかないのはわかってる。わかっていたからこそ、今回のことを、わたしは許すことができない」

 愛を舌にのせて述べられる賀山先生の声は、甘く、ともすれば熱く、菊池少年への狂気じみた偏執を孕んでいた。

「あなたが自らわたしのものにならないのだったら、無理矢理わたしのものになるようにしましょうか」

 菊池少年の長い一日は、終わらない。

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