FILE5 惨殺 2

 女性に言われた通り、菊池少年は教室に行く前に保健室に寄った。

 普段から菊池少年はよく保健室の世話になっているので、保健室を利用することに躊躇いはない。

 養護教諭の賀山先生も、心に問題を抱える菊池少年にいつも良くしてくれている。きっと今日もそうだろう。

 案の定、菊池少年が「失礼します」と保健室に入室すると、優しげな声で「あら、氷太くん、どうしたの?」と受け入れてくれた。

「転んでしまって……」

 菊池少年は賀山先生に包帯の巻かれた脚を示す。

「まあ大変。包帯は自分でやったの?」

「いえ、通りかかった人が巻いてくれました」

「そう……」

 賀山先生は屈んで、菊池少年の膝に視線を合わせて、「これ、取っちゃうわね」と包帯に手をかけた。

 あの女性が巻いてくれた包帯だと名残惜しく感じるが、養護教諭である賀山先生に逆らう理由も見つからず、無言のまま頷いた。

 いとも容易く少年の膝から包帯が離れてゆく。

「痛かったでしょう。滲みるけど、消毒するわね」

「はい……」

 消毒液で脱脂綿を湿しながら、賀山先生は菊池少年に話を振った。

「最近は氷太くん、ずっと思いつめた顔をしているけど、今日はもっとひどい顔色だわ。もしかして、またクラスやお家で大変な目に遭ったの?」

「あ……いえ……」

 曖昧に言葉を濁す。

 思いつめた顔などしていただろうか。

 考えても思い当たる節はない。

 確かにクラスでも家庭でも上手くいっているとは言えない菊池少年だが、ここ最近はそれなりにいい流れに乗っている。

 クラスについては年度末に行われたクラス替えで、自分をいじめていた児童とはクラスが離れたし、新しいクラスでは友達と呼べる存在もできた。

 家庭は、父親の過干渉が若干苦手だが、それ以外に不満はない。だって、不満を抱いたって仕方のないことなのだから――。

「はい、これでよし」

「ありがとう、ございます」

 控えめに頭を下げて、礼を言う。

 頭を下げた拍子に、膝に貼られた絆創膏が見えた。

 ついさっきまではあの女性が巻いてくれた包帯があったのに、今はなんの変哲もない、普通の絆創膏が貼られている。

 他人から見ればあの包帯もこの絆創膏も同じだろう。むしろ衛生的で肌にぴったりくっつく絆創膏の方が、好印象かもしれない。

 それでも菊池少年にとってあの包帯は、ほかのなにものにも代えがたい存在に君臨していた。

「氷太くん」

「はい」

 ランドセルを背負って保健室から出ていこうとした菊池少年は、賀山先生の声に足を止めた。

 賀山先生は、菊池少年をそっと抱きしめた。

「……、…………?」

「おまじないよ。大丈夫、きっともうすぐ、氷太くんにとって素晴らしいことが起こるわ」

「……? はい、ありがとうございます……?」

 なにを言っているのかさっぱりわからなかったが、おまじないということだから、特に意味はないのだろう。

 少年はそして、教室へと向かった。

 既に血塗られた舞台と化した、三年三組の教室へ。


 ◆◆◆


 がらりとスライド式のドアを開けて、絶句した。

 教室が――よくある平凡な、なんの特徴もない普通の教室が――血液と死体だらけになっているではないか。

 よく見れば、今開けたドアの磨りガラスにもびっしりと、大量の血液が付着していた。

 足元のなにかがぶつかる。

 瞬きもできぬままそこへ視線を移すと、首の部分がない男子児童の身体だった。

「はっ――えっ――?」

 呼吸が止まる。

 叫ぶこともできない。

 血塗れで、真っ赤で、赤い箱の中にいるようで――。

 死体だらけの教室には、もうどこにも生きている人なんていなくて――。

 ――いや、いる。

 教壇に隠れていた――否、教壇で倒れている死体をいじっていたその人物が、立ち上がった。

 背中を覆い隠すほどの長い茶髪は、毛先だけが透き通るように白い。ぴっちりと着こなしたスーツは返り血で染まっている。スーツの黒は、赤い血を吸ってどす黒く変色していた。右手には、それでこの教室を蹂躙したのだろう日本刀が握られていて、それも赤い血でぬらぬらと濡れ輝いていた。

 菊池少年の方を振り向き、

「――おや、また会えたね」

 血潮に染まった教壇に立つ女性は、にっこりと、凄惨に笑った。

「僕は特別講師の尾鷲鷹姫です。このクラスのみんなに、死を教えに来ました――なぁんてね」

 右手首を少し動かし、刀がぶん、と振られる。それにより刀に付着していた血液は振るい落とされる。

 ぴちゃ。

 と、菊池少年の白い頬を、赤い血が張り付いた。

「――――――っ!」

 ぞくぞくぞく。

 背筋が凍るかと思うほど。

 その場で失神してしまいそうなほど。

 身震いした。

 唇が震える。

 息も震える。

 身体中が、打ち震える。

「そうか、このクラスの子だったのか。ふうん……残念だけど、見られたのなら殺すしかないね」

 言って、たった一歩で、鷹姫は菊池少年に接近した。

「それじゃあね、少年くん」

 刀を振り上げ、今、菊池少年の生殺与奪は我が手にありと、鷹姫は笑んだ。

 殺気も、圧迫感も、すべてが彼女の思いのままなのだ。

 今まさに命を奪われる寸前、震えていた唇はやっと言葉を零す。

「――綺麗――」

 海に反射する夕焼けよりも、足跡のついていない雪原よりも、青空にかかる虹よりも、数ある雑誌のモデルよりも、舞台の上で踊る女優よりも、ステージで歌うアイドルよりも――美少年と謳われるぼくなんかよりも、ずっと――!

 なんて綺麗なのだろう。

 彼女のもたらした惨状は。

 そして彼女そのものは。

 涙が頬を伝うほど、綺麗で、綺麗で。

 なんて、美しいのだろう。

 ――美しい彼女に殺されるのだったら本望だ。

 菊池少年は目を細め、涙を流しながら、笑った。

 誰よりも綺麗な彼女に殺されるという耽美に、酔い痴れていた。

「………………」

 さて。

 面食らったのは鷹姫の方だった。

 日本刀を頭上で振り上げられているというのに、逃げもせず、悲鳴もあげず、涙を流して、まるで懇願するかのように破顔した少年。

 恐怖でおかしくなったとは思えない、正気の顔をしている。

 この小学校の、三年三組の担任を殺せという依頼が来た。どうやら痴情のもつれのようだ。鷹姫はそんな個人の情報などどうでもよかったが、最近『殺戮家』としての活動をしていないし、ちょうどいいと思って殺害対象の受け持つクラスの子供たちも殺戮した。赤く染まる教室は心地よい。たとえ子供であろうと、尾鷲鷹姫は躊躇などしない。彼女の良心にはちっとも響かない。

 ただ悲鳴が、絶叫が、恐怖が、絶望が、――夥しい血液が、彼女に注がれているのが心地よかった。その背徳的な恍惚に酔い痴れる瞬間こそが生の喜びだ。

 だから僕は人を殺すのだ。

 愉悦のために、殺すのだ。

 しかしこの少年はなんだ? 今まで見たことがないくらい美しい顔をしている。俗に言う美少年というやつだろう。いや、そんなことはどうでもいい。美しかろうと美しくなかろうと、殺せばただの肉塊だ。肝心なのは、死ぬ間際だというのに恐怖の色を見せない素質だ。しかもなんだ、「綺麗」と言ったか? 僕のことを? 殺される直前に、よく平然と言える。殺されたくないからおだてた……というわけでもなさそうだ。

「ふうん」

 鷹姫は振り上げていた刀を下ろした。

 腰に差してある鞘へと納刀し、「少年くん――いや、きみの名前は?」と、菊池少年に問う。

 少年はぼんやりとした瞳を見開いて、

「氷太。菊池、氷太――です」

 と応じる。

 質疑応答はできるようだが、どこか夢見心地といった声色だ。

「……氷太くんだね。わかった。もしもきみがこちら側に来たいと切望するなら、僕はそれを叶えよう。きみには才能がある」

 屈んで、菊池少年の手を取る。

 指先に、そっと唇を落とした。

「……えっ?」

「指先へのキスは称賛の証。尾鷲鷹姫は菊池氷太を称賛しよう」

 次の瞬間、菊池少年の目の前は真っ暗になって、彼は気絶していた。

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