FILE5 惨殺 1

 美少年。

 美しい容姿をした少年のこと。

 あるいは――菊池氷太のこと。

 殺人鬼になったばかりの彼は、自殺の真っ只中である。

 しかし首を吊ろうとか、建物の屋上から飛び降りようとか考えているわけではなく、彼は彼らしく、美しく生活しているだけだ。

 殺人鬼として、生きているだけだ。

 しかしそれを自殺と呼ばずしてなんと呼ぶ。

 好奇心は猫を殺すが、憧れは美少年を殺す。

 この世で最も忌まわしい凶悪犯罪者に憧れて生きている彼の人生は、そのもの自殺への血道と称して差し支えない。

 菊池氷太は数えで十歳の美少年。

 美しい彼の人生は、とある美しい背徳者と出会うことで大きく歪むこととなった。

 まずその経緯から語らせてもらおう。


 ◆◆◆


「氷太、それじゃあお父さんは行ってくるから、氷太も学校で勉強頑張るんだぞ」

「うん、お父さん。いってらっしゃい」

 父親は顔が溶けてしまったかのようににんまりと微笑み、菊池少年の頭を撫で、頬にキスをした。

「いってきます」

 何度もキスをし、名残惜しげに父親は扉を閉めた。

「……ぼくも学校に行かなくちゃ」

 横目で、未だに開かぬ寝室の扉を見たが、一向に変化はない。

 母が寝ている、寝室を。

 仕方がない。

 いつものことだ。

 母にも父と同じことをしてほしいと願うなど、厚顔無恥もいいところなのだから。

 父にキスされた頬を手の甲で拭いながら、菊池少年はランドセルを背負って自宅を出た。

 自宅とはいっても一軒家ではない、平凡なアパートだ。一軒家を建てるだけの経済力は、菊池家にはない。

 それに対して不満を抱いたことなどないけれど。

 住んでいる場所にまで不満を抱いていたらキリがない。不満など泉のように湧いてくるのだから、住まいへの不満くらいは我慢できないとやりきれない。

 いつか自分の不満で潰れてしまうだろう。

 そんなものに潰されるくらいなら、気にしない方が得策に思う。

 父のことも、母のことも、学校のことも。

 気にしてばかりで圧し潰されるくらいだったら、最初から諦めて受け入れてしまった方が賢いやり方だろう。

 美しいやり方だろう。

 菊池少年は自身が美少年であることを自覚している。

 幼少期はただそれだけでちやほやされたし、今もクラスメイトの女の子の注目の的だ。一目美少年を見ようと、ほかの学年からも彼を見に来る輩まで現れる始末。

 白い肌は氷細工のように儚げで、触れたら壊れてしまいそうな危うささえある。

 人間の最も美しい姿が、彼の造形そのものと言えよう。

 誰もが菊池氷太を見るたびに美しいと称賛する。

 けれど――それがどうした。

 そう。ぼくは美しい。

 美しいけれど、誰もそれ以外を見てくれない。

 容姿以外に、ぼくに美点はないのだろうか。

 足が速いとか、勉強ができるとか、そういうものはないのだろうか。

 誰も彼もが美しいとしか言わない。

 知っている。

 ぼくが美しいことは知っているから。

 だから、ぼくを見て。

 美少年であるぼくではなく、等身大のぼくを見て。

「あっ」

 考えごとに夢中で足元が疎かになっていたようで、コンクリートの出っ張った部分に足を取られてしまった。投げ出された身体はそのまま地面に激突する。

 誰もが菊池少年を見ると、程度の差こそあれ例外なく見惚れてしまう。その注目を嫌い、自然と菊池少年は人目を避けるようになった。

 通学路は学校の定めた人通りの多い道ではなく、むしろ閑散とした路地を使う。時間も朝の会開始ぎりぎりに教室に到着するよう調節している。

 そのため、周辺に人はいない。

 ――誰かにみっともない姿を見られなくてよかった。

 起き上がりつつ、服についた土埃を払う。

「痛っ」

 膝の土を払おうとしたところ、鈍い痛みに顔を歪める。膝を擦りむいてしまった。血が滲んでいる。

 知覚すると途端に足の力が抜け、その場に座り込んでしまう。

 痛い。

 惨めだ。

「うっ……ひっく……」

 なにが悲しいのかわからない。

 けれど涙が溢れてくる。

 怪我が痛いから――だけではないだろう。

 惨めだ。

 自分がどうしようもなく惨めで仕方がない。

 悲しい。

 悲しいのは……お父さんのこと?

 それともお母さんのこと?

 容姿しか見てくれない周りの人のこと?

 わからない。

 全部かもしれない。

 泣いたって誰も助けてくれるわけがない。

 そう、誰も――

「どうしたの、ぼく?」

「………………」

 どれくらい経っただろうか。

 静かに泣く菊池少年の前に、女性が膝をついていた。白いハンカチを差し出している。

 編み込みに結い上げた髪。けして派手ではない化粧とは対照的に、髪色は明るい茶色で目を引く。瞳だけがやけに鋭い。

「泣くのはおやめ。ああ、怪我をしているのだね、痛そうだ」

 女性の手は、優しく菊池少年の頭を撫でた。

 優しい手に触れられて、一層涙が溢れてくる。

「歩けるかい?」

 菊池少年は首を横に振った。

「なら僕の背中に乗りなさい。近くの公園で傷を洗おう」

 女性はぴしっとしたスーツを着ていたが、転んだばかりの菊池少年を背負えば、綺麗なスーツが汚れてしまう。そんなことになっては申し訳ない――と、少しばかり気後れした。しかし、

「ほら、早く」

 急かされたため、無言のまま女性の背に跨る。

 菊池少年がしっかりと掴まったことを確認すると、女性はひょいと立ち上がった。

 自分は華奢だが、今年でもう十歳だ。背負うには重いはずである。しかし女性はいとも容易く菊池少年を背負った。

 背負われたことで、編み込んでまとめられた女性の髪を間近で見ることができた。

 毛先がすべて内側に収められている。収まりきらずはみ出してしまった毛先も自然な茶色――ではなく、透き通るほど白かった。

 毛先だけ染めているのだろうか。

 それとも若白髪か?

 人は強いストレスを感じると白髪が増えると言う。

 実際、菊池少年も家庭の軋轢によるストレスからか、髪の色素が若干薄い。

 まあそれは置いておいて。

 近くの公園――大きな亀の滑り台があるので『カメさん公園』と呼ばれている――にある水道で傷口を洗う。

 擦りむいた膝以外にも、ひっかき傷のような小さな怪我もあったので、それも洗った。

「んー、絆創膏は残念ながら持ってないね。仕方がない、これで代用しようか」

 自分の鞄を探りながら女性は言って、さきほど菊池少年に差し出してきた白いハンカチを再び取り出した。

 そしてそれを、容赦なく真ん中で引き裂く。

「えっ……?」

「はい、包帯の完成」

 引き裂いたものの、完全には裂かず、かろうじて繋がっている状態にして、簡易な包帯を作り上げた。

 するすると膝に巻かれていくハンカチで作った包帯を眺めるふりをしながら、菊池少年は女性を盗み見た。

 美人――というよりは、麗人という部類だろう。

 切れ長のつり目。気が強そうだ。もしも同年代だったなら、恋心のひとつでも抱いてしまいそうな魅力がある。同年代でこんなに綺麗な瞳を持つ人間など、存在するはずがないが。薄い唇が桜色で官能的だ。会った時からそうだが、ずっと笑みの形を象っている。それがどこか――不気味だ。

「できた。歩けるかい?」

 差し出されたしなやかな女性の右手を取り、菊池少年は「はい」と控えめに返事をした。

「学校まで送ろう」

「え、でも」

「僕も小学校に用事があるからね。ついでだよ。……というよりも、小学校までの道がよくわからなくてね。案内してくれると嬉しいんだ」

「あの、なら……はい」

 ぼくが案内します。

 と言えたら、かっこよかっただろう。

 しかし少々躊躇ってしまって、曖昧に頷くことしかできなかった。

 横断歩道を渡り、喫茶店の前を通ると、小学校の校庭が見える。もう朝の会の時間になってしまっているらしく、校庭には人ひとりいない。

 遅刻してしまったか。

 いや、構わない。

 たかが小学校だ。多少遅れても、いくらでも取り戻せる。

 父も母も、遅刻についてはなにも言わないはずだ。

 昇降口に近付いてきたあたりで、女性が手を離した。

「うん、ここまで来れば大丈夫。案内ありがとう、助かったよ。きみは、一度保健室に行って手当をしてもらうといい。傷が化膿するといけないからね」

 それじゃあ。と手を振って、女性はお客様用の入口へ入っていった。

 手を振り返しながら、菊池少年は溜息をついた。

「名前……聞き忘れちゃった」

 人の名前を知りたいと思ったのは初めてだ。

 そして、名前を聞きそびれたことを後悔したことも初めてだった。

 何故小学校に用事があったのだろうか。もしかしたらどこかの偉い人で、小学校を視察に来たのかもしれない。そうだったら、また、会えるだろうか。

 会えたら嬉しいな――と、菊池少年は淡い期待を華奢な胸に抱いた。

 菊池少年の淡い期待は、その後果たされることになる。

 最悪の形で。

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