綾唄蓮華の語り部 2

「腕だけではありません。服で隠れている場所は、全部あんな感じです。全部お義父様がやりました。抵抗すればもっと酷くされるので、抵抗なんかできません。普段は家の格子窓に腕を繋がれているので助けを求めることもできません。たまに学校帰りに寄り道をする振りをして夜遅くまで出かけてみたりもしますが、そのあとは結局折檻が待っています。家の給仕たちはお義父様が怖くて逆らえません。だから私は縋るしかなかった。慶兄さんとの結婚で、あの家を離れることを……でもそんなことをしたら、今度はお母様が酷いことをされてしまいます……っ!」

 本当はわかっていました。慶兄さんが看破しなくとも、夜になって服を脱げば一緒に痣は露出する。最近はこのデートがあるから私は殴られずに済んでいたけれど、代わりにお母様――本当の、一緒に綾唄家に追いやられた実母――が殴られていたことも、知っていました。

 きっと私が慶兄さんのもとへ嫁げば、あの暴力はお母様に向いてしまう。

 だから私は縋るしかなかった。

 慶兄さんに看破され、義父の暴力が暴かれることを。

「……話はわかりました」

 慶兄さんは、一通りの私の説明を聞いて、思案げに頷きました。

「それはさておき」

 と目を閉じて、また微笑む慶兄さん。その目が、まるでなにか軽蔑しているようで……。

「リストランテに行きましょう。話はそのときでもできる」

「え……? は、はい」

 促され、部屋を出る。めくられた袖を戻すことも忘れない。

 今度はエスコートもなく、前を歩く慶兄さんを追うことしかできない。

 その背中から、なにかを感じた。

 恐ろしいような、哀しいような、敵意のような、善意のような……殺意?

 蜜薔薇学園でも感じることの多い殺気。

 しかし学園の生徒たちが放つ殺気よりも断然――怖い。

 リストランテはおしゃれなイタリアンでした。

 慶兄さんはボーイと一言二言言葉を交わし、紙を渡していました。チップでしょうか。

 ボーイは髪が長いようで、帽子の中に茶色の髪の毛を入れています。

 射貫くような瞳と、一瞬だけ目が合いました。瞬間流れた、死の群像。

「どうぞこちらへ」

 促され、ようやく我に返ります。通された席は夜景を眺めることができるVIP席。

「すでに注文はしてあるので、存分にお話できますよ、蓮華さん」

「はい、慶兄さん」

「学校生活は楽しいですか」

「……楽しいです。家にいるよりは、ずっと」

「そうではなく、友人と話すなどして楽しめていますか、という意味です」

「それは……」

 思わず唇を噛んでしまいました。

 友人と呼べる人など、先日知り合ったありすさんだけ。

 学園の生徒は、私が蝶咲分家の娘だというだけで遠巻きにしている。直接的ないじめはないけれど、とても寂しいことは確かです。クラスも、最も成績の悪いクラスなのでいい目で見られていません。成績の悪いクラスに配属されているのは、お父様――こちらは本当の、蝶咲家当主であるお父様――の配慮ですが。

 慶兄さんはそんな私を見て察したのか、それ以上追及しませんでした。

 ただ一言「地獄のようですね」と呟いただけ。

 なにか言い訳がましいことを言いそうになったところで料理――イタリアンフルコース――が運ばれてきたため、そこで会話は中断されました。

 食事の最中は、静かに、時が流れていきました。

 美味しいはずの料理の味は、ほとんどわかりませんでした。

 何故でしょう。

 以前ありすさんとお食事をしたときはとても楽しくて美味しかったのに。

 慶兄さんも、ありすさんと同じくらい大切で大好きな人なのに。

 どうしてこれほど、近付きがたく感じてしまうのでしょう。

「指輪」

「はい?」

「その指輪、蓮凰君とお揃いですね」

 慶兄さんは私の右手小指にはめられた指輪を見て言いました。

「はい……」

「学園でも仲がいいのでしょうか?」

「はい、仲良くやっています。でも、私は劣等クラスで、蓮凰ちゃんは特別待遇クラスですけど……」

「まあそこは、貴女は一切悪くありませんがね」

 ワインを上品に口に含み、励ましているのか事実を言っただけなのかわからないことを呟きました。

「あの……」

「なんです?」

「どうして、私の、か、身体のこと、気付いたんですか?」

「……答えたら、貴女は私を軽蔑しますよ」

「構いません」

「………………」

 慶兄さんは、口を開かない。

 私は黙って、慶兄さんを見つめた。

「……軽蔑するというのは、ただの脅しです。そうですね、動きがぎこちなく見えたから……でしょうか」

「ぎこちなく?」

「はい。椅子に座るとき、腕が物にぶつかったとき、例を挙げればきりがありませんが、貴女の動きの端々には、怪我をした人間の素振りが含まれています。確信するまで少々時間がかかりましたが、そこは流石、蜜薔薇学園の生徒……と言わざるを得ませんね。それくらいの出来ならば、十分特別待遇クラスでもおかしくありませんよ」

 隠したつもりでいた。

 動かすたびに痛む身体を、慶兄さんが心配しないように、隠し通したつもりでいました。

 そうでした。

 慶兄さんも、蜜薔薇学園に通っていたのです。

 しかも、あの蜜薔薇学園で、伝説とまで謳われた名生徒。

 頭脳明晰、才色兼備。

 座学、戦術の授業において、肩を並べることができた者は、上級生でさえ存在しなかったと言い伝えられる、謀略の天才。

 そんな人に、私などが隠し事などできるはずもありません。

「なんでも、お見通しなんですね……」

 慶兄さんは、どこまでお見通しなのでしょう。

 私の心象まで、読めているのでしょうか。

「私……私は、慶兄さんが大好きです」

 幼いころからずっとお世話になっているお兄さんなのですから。

 けれど、私は――結婚したいわけではない。

 白馬の王子様を信じているわけではない。

 白馬の王子様なんて現れない。

 それでも私は、いつか王子様が現れるのを信じている。

 なんて愚かなのでしょう。

「………………」

 慶兄さんは、溜息をひとつ吐いて、

「わかりました」

 と言いました。

「蓮華さん、今日はもう帰りなさい。ホテルの前に車を待たせていますので、それに乗るといいでしょう」

「え――でも、今日は」

「安心してください。貴女はもう、望まぬ結婚などしなくていいのです。ついでに、義理のお父さんに暴力を振るわれることも」

「え……え?」

 てきぱきと食器を片付けて、帰り支度をする慶兄さん。

 そしてさっさとリストランテをあとにして、ホテルのロビーへ向かいます。私も慌ててあとを追いました。

 ロビーでは、私の荷物を持った女性が姿勢よく佇んでいます。

「安心してください、私の部下です。蓮華さんはこれで、そのまま家へ帰ってもらって構いません。……それでは、蓮華さんを頼みましたよ、榛さん」

「仰せのままに」

 私が戸惑っていると、慶兄さんは他人に安心をもたらす笑顔で微笑みました。

「それでは蓮華さん。また会う日まで、息災を」

 そして私は促されるまま、女性――榛さん――に車に乗せられ、ホテルを後にしました。


 ◆◆◆


 その日、私は本当に蝶咲家に保護され、そして数日後、私とお母様は十四年ぶりに、蝶咲を名乗れることになりました。

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