FILE3 謀殺 1
世界屈指の大財閥、蝶咲家の分家。
それが彼の生家。
この世界を統べる花鳥風月の一角を担う、蝶咲家。商業、経済において特出した影響力は、分家といえど絶大だ。特に私の家である蓮璉家は、蝶咲財閥の中でも上位の立場にある。
良家特有の、厳しい教育はたいして苦ではなかった。要領がいいだけだが、勉強自体も嫌いではなかったからだ。それゆえに、生まれを後悔したことはない。
しかし同時に幸運だとも思わなかった。もとから持っていることを自覚し喜ぶことは難解で、さらに言うなら――環境的に恵まれた子供が、心まで恵まれた子供であるとは限らない。
稀代の天才だと、父親が酒の席で自慢していたのを聞いたことがある。
それを当時十歳だった私は誇らしく思ったし、ならば父親が望むような、将来この蓮璉家をもっと大きな家にできるほどの人材になってやろうとさえ考えた。この時点では、まだ彼は恵まれた子供だった。
十三歳のころ。
蓮璉家と同じく蝶咲分家のひとつ、鳳来寺家がお膝元『蜜薔薇学園』にて様々な教育を受けていたころ。
本家である蝶咲家に双子が生まれた。
愛らしい男女の双子だった。
その双子が引き金で、蝶咲財閥は真っ二つになった。
兄を跡継ぎとして育てるか、妹を跡継ぎとして育てるか。
小さな戦争にまで発展した。
戦争――それを知る者は『蝶咲内乱』と呼んでいた――は、二年ほど続いていたらしい。
その間に、当事者でありながら中心にいない兄妹とも仲良くなった。母親同士が従姉妹であるため懇意だったからだ。ふたりとも、幼いながらも、彼のことを慕っていた。
『慶お兄ちゃん』と呼ばれるのは、照れくさくもあり、嬉しくもあった。
本人たちは知らずに育っていった。自分を王にしようと目論む大人が、蹴落としたり蹴落とされたり、生きたり死んだり、殺したり殺されたりしていることを。
台風は大きければ大きいほど、中心の目は穏やかなのだ。
それでも一緒に遊べば楽しかったし、仲良く鬼ごっこやかくれんぼをしているのを見ていれば微笑ましかった。まるでこの平穏が日常であるかのように。
けれどそれは、やはり長くは続かなかった。
子供目線では長かった戦争も、ついに終止符が打たれたのだ。
後継者は兄となった。
結果、妹を支持した家のいくつかは制裁が下された。妹本人は、蝶咲家の直系から名前を消された。当主直々の温情ある配慮のもと、蝶咲家の影、綾唄家へと追いやられた。
母が言うことを信じるならば、それは、妹を守るための措置らしい。
蝶咲家現当主は今時分珍しく、人間のできた人だと聞く。蝶咲内乱も、すぐに終わるように尽力した。しかし当主とはいえたったひとりの人間に、起こった戦争を終わらせる力はなかった。せいぜいできたことは、ふたりの子供が暗殺されないように献身し、尽くすことのみ。
蝶咲家は『帝国』と呼ばれていても、君主主義ではない。本家の当主であっても、多数の主張を無視することはできないのだ。
双子は離れ離れになってしまったが、双子の母親と懇意である蓮璉家を介せば、会ってもいい、という取り決めがなされた。彼の母親は、家長ではないとはいえ、蝶咲本家の直系にあたる者だったからだ。分家の人間では迂闊に手が出せないだろうという算段である。
それを疎ましく思っていたのが私の父だ。
蓮璉家は、表向きは中立の立場だったが、当主だけは後継者を兄と支持し、暗躍していたことが後述する事件のあとに判明した。
月に何度か双子と母親を自宅で引き合わせるという習慣が根付き始めると、あるとき、父親が母親と彼を自室へ呼んで、驚くべきことを口にした。
「慶、お前と綾唄の娘との婚約が決まった」
綾唄の家長は独身で、子供もいない。しかし最近、綾唄は蝶咲本家から養子をもらっている――つまり綾唄の娘とは、蝶咲本家に生まれた双子の妹を指す。
そこには、欲が見え隠れしていた。
蝶咲の直系にあたる女の子を、自分の出世の材料にしようと目論んでいるのが、言外に理解できた。
それに反論したのは彼の母親だ。
「待ってください。蝶咲当主の了解もなしに、そんなことはできません。考えてもみてください。あの子はまだ二歳で、慶は十五歳なのですよ。いくらなんでも、歳の差が……」
「歳など些細なことだろう。それに娘はもう蝶咲の娘ではない、綾唄の娘だ。綾唄家の家長とは、すでに話が済んでいる。向こうも二つ返事で了承してくれた。なにも問題はあるまい」
「………………」
母は絶句していた。
ここまで独断で勝手を行うとは思っていなかったのだろう。
「……ですが」
「慶」
再び口を開きかけた妻の言葉を遮って、蓮璉家家長は彼に命令した。
「あの娘と結婚しろ」
「やめてください!」
悲鳴のような声で、母親は叫んだ。
「慶には幸せな結婚をしてほしいのです! やっと蝶咲も許嫁の制度から外れようとしているのに、あなたはそれを踏みにじるおつもりですか!? 家長とはいえ、そんな蛮行は許されません!」
それが母親の最期の言葉となった。
父親が右手を挙げた途端、窓ガラスに蜘蛛の巣のようなヒビが入り、その直後には隣に立っていた母親が倒れた。
脳天から泉のように血を吹き出しながら。
「……母さん?」
床に仰向けに倒れた母親は目を見開いたまま、肌はどんどん白くなっていき、そしてそのまま二度と自分の意思で動くことはなかった。
「慶」
その声は鉛よりも重く、一切の反論を許さない声。
口答えをしてみろ、お前もこうなるぞ。と、雄弁に語っていた。
「お前はなにも見ていない。わかっているな? このことは誰にも喋るな。母親は悲しい事故死だ。俺にお前を殺させてくれるなよ。お前は大事な――駒なんだから」
そのときに芽生えた感情は、母が死んで悲しいとか、父が豹変して恐ろしいとか、そういう類いのものではなく、自分は人間として見られていなかったという――落胆だった。
「わかったな?」
口を開くことが叶わず、頷く。
「ならば、部屋へ戻れ。今日は部屋から出るな」
頷く。
そして、震える足を無理矢理動かし、父親の自室から脱出した。
扉を閉めて、その場から動けず、座り込んでしまう。
父が、母を殺した。スナイパーか。言う通りにしないのだったら最初から殺すつもりだったのか。邪魔する者は皆殺しか。ははは。なんということだ。僕は最初から父に認められていなかったのだ。ああおかしい。それで親孝行をして家を大きくするなど愚かな志を秘めていたものだ。最初から僕はあの男の駒でしかなかったのだ。言いなりでなくなったらすぐに切り捨てられる駒。チェスのポーン兵、将棋の歩兵。否。それよりも価値の低い捨て駒。その程度にしか見られていなかった。母もきっと最初から駒だったのだ。そうだよなぁ、あの蝶咲本家の直系なのだもの。そんな母を殺してしまったのだ。殺しても許されると思っているのだ。思いあがっているのだ。傲慢。今の立場では満足しない強欲。狙うは蝶咲家の当主か。この世界の王になるつもりか。そして嗜虐の限りを尽くすのか。そうしたら最後に手を出すのはきっと花鳥風月。神を殺し王を乗っ取り共和国を制圧し連邦を破壊する。とんだ帝国主義もあったものだ。強欲、傲慢、強欲、傲慢、強欲傲慢強欲傲慢強欲傲慢――軽蔑に値する。
「……そうだ、殺そう」
ぽんと呟かれた言葉は、確たる信念。
殺意を抱いた少年は、これから殺人鬼へと成長する。
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