FILE2 虐殺 6
「私は綾唄蓮華と申します」
と、蓮華は行儀作法を心得た様子で頭を下げた。
「あ、アタシは……」
虐殺と名乗るべきか、迷ってしまった。
こんな、どう見ても一般人の少女が殺人鬼クラブを知っているわけがないし、知っていたとしても新手のギャグだと思われるだけだから特に問題はない。
けれども、何故か、彼女にはその名前を名乗ってはいけないような気がした。
自身の直感には従うたちなのだ。
「アタシは、斧崎ありす」
いつぶりだろう、本名を口にしたのは。
「ありすさんですね。可愛らしいお名前です」
「蓮華さんこそ、なんだかすごく、似合ってる」
「あ、ありがとうございます。……ごめんなさい」
蓮華はびくりと身体を震わせて、俯いてしまった。
なにか気に障るようなことを言ってしまったのだろうか?
しかし彼女が謝った理由は別だった。
「本当はこのお店に入るつもりはなかったのではありませんか? その、なんだかきょろきょろしてらっしゃるし……」
「あう」
店に入るつもりがなかったのは事実だ。
なにせこの店は、本物の料亭だったのだから。
まさかの完全個室。床の間に飾られた生け花は素人目に見ても素晴らしいものだし、なにより部屋が広い。ここが料理を食べるためだけの部屋とは思えないほどだ。
ほんとに財布の中の五万円で足りるのか。その倍のお値段になるんじゃないか。というかこういう店は一見様お断りが多いのではないか。完全予約制でもあるはずだ。そういえば蓮華を見たときの店員の様子が少しおかしかったなあ。もしや彼女は金持ちで、この店の常連なのでは。
というところまで考えが巡ったところで、料理が運ばれてきた。
季節を彩った和食の数々。目で味わう料理とはこのことか。どう考えても未成年女子がふたりきりで食べる料理じゃない。それとも金持ち界隈では当たり前のことなのか。
「……ふふ」
蓮華が口元に手をあてて笑い声を漏らした。
「え?」
「あ、ご、ごめんなさい。ただ、嬉しくて」
「嬉しい?」
「はい、私、お友達と一緒に食事をしたことがなくって、つい……」
「友達……」
「あっ! ごめんなさい! 初対面で一緒にお食事をするだけでお友達だなんて……図々しいですね……ごめんなさい」
おお、ひとつの台詞にふたつ「ごめんなさい」が入った。
彼女は「ごめんなさい」が口癖らしい。
「いや、もう友達でいいんじゃないかな。一緒にご飯を食べるんだし」
「ありがとうございます……」
蓮華が頬を赤らめていることは、彼女が俯いていてもよくわかった。
「……食べましょう?」
再び顔をあげた蓮華は、微笑んで両手を合わせた。
「いただきます」
行儀が良い。
それはイコールにはならないが、育ちの良さを感じさせる。
「蓮華さん、は」
「蓮華と呼び捨てで構いませんよ。お友達なのですから」
「蓮華は、どうしてここに来たの?」
「夕ご飯を食べにですが」
きょとんとした顔で首を傾げる。
「ひとりで?」
「はい」
あくまでも穏やかに微笑みながら、蓮華は言葉を続けた。
「家族となんて、来られませんから」
「…………?」
なんだか陰のある物言いだ。家族とうまくいっていないのだろうか。
そういえば蓮璉家の御曹司である謀殺も、家族関係は上手くいっていないらしい。金持ちとはそういうものなのかもしれない。
「ありすさんは?」
「え?」
「ありすさんは、どうしてここにいらしたのですか?」
「…………えっと」
あれ?
アタシはどうしてここに来たんだっけ?
どうしてこんな高級料亭の前に佇んでいたんだ?
「わかんない」
「あら」
虐殺は、ここに来るまで共に歩いていた女性のことを、すっかり忘れてしまっていた。
まるで最初から、ひとりでここに来たかのように。
「そういうこともありますよね。私も、ついぼーっとしちゃうことがあって、それでお義父様に怒られちゃうんです」
「ふうん?」
今、なにか……。
口元に手をあてて笑う蓮華を見て、気付く。
「指輪?」
彼女の右手、その小指に、繊細なデザインの指輪がはまっていた。
指に巻き付くようなデザインで、片側に蝶を象ったもの、もう片側に少し大きめの石が施されている。石の色は透明で、照明に反射してきらきらと輝いている。
「これですか?」
右手を掲げて、蓮華は指輪を示した。
「学校の決まりで、外しちゃいけなくて」
「…………?」
二年近く学校という施設から離れている虐殺には確かなことは言えないが、学校とはそういうアクセサリーの類は、むしろ外すようにと指導されるものではなかったか? そう記憶している。校則の緩い学校ならばそれくらい許すところもあるだろうが、着けることを義務付ける学校なんてあるのだろうか。
「それに、外したくないんです」
蓮華は照れたようにはにかんだ。
「蓮凰ちゃん……お兄ちゃんと、お揃いだから」
「お兄さんがいるんだ」
「はい。でも、内緒ですよ」
人差し指を立てて、「内緒」の仕種を取る。
その動作のひとつひとつが、まるで洗練された芸術品のようだ。
「自慢の兄です。頭も良くって、かっこよくて、とっても優しいんです」
「お兄さんのこと、大好きなんだね」
「はい、もちろん」
堂々と、いっそ誇らしげに、彼女は頷いた。
この年頃で感じる男兄弟は、煩わしいと感じる子のほうが多いというのに。虐殺は兄どころか弟も姉妹さえもいないので、その感覚はわからないが。兄弟姉妹どころか、親だっていない。
この手で、屠った。
それについては後悔も反省も懺悔もない。
殺したかったから殺した。それだけだ。
けれど、その事実を蓮華に話したくないと虚飾する自分がいる。
「……ありすさんは、自由なのですね」
「え?」
「まるで物語のアリスのようです」
「それは……」
罵倒か?
しかしそんな風には見えない。
「気を悪くしてしまったのならごめんなさい。でも、アリスは、とても自由なんですよ」
「でも、アリスは……子供じゃないか」
永遠の少女の象徴。
それはアタシよりも遊殺の方が似合う。
それにアタシは子供ではなく大人でいたい。
「どうして子供でいたくないんですか?」
まるで邪気なく、蓮華が訊ねる。
「………………」
「どうして大人になりたいんですか?」
蓮華が訊ねる。心地よい声音に促されて、虐殺の口から答えがこぼれた。
「周りが……大人ばかりだから」
その答えは、いつも頭の片隅に存在して、だからこそ誰にも言えなかった本心。
「望んで踏み入った世界なのに、周りは大人ばかりで、早くそれに追いつきたかった。追いついて、並びたかった。そうしなきゃ隣に立つことさえ許されないから……。でも、恰好だけ大人になっても、口先だけ大人になっても、それは大人じゃなくて、結局は子供が背伸びをしているだけなんだって気付いて、虚しくなる」
どうしてこんなことをさっき会ったばかりの少女に話してしまうのだろう。けれど言葉は止まらない。先ほどもこんなことがあったような既視感を覚えるが、そんな引っ掛かりはすぐに忘れてしまった。
「気持ちは幼いままで、自立もできていない。それなのに自分は大人なのだと、粋がって、一歩も進んじゃいない。それに気付いて、悲しくなる」
「………………」
蓮華はなにも言わない。
今はそれがありがたい。
ただ微笑んで、黙って話を聞いてくれるだけで、こんなにも救われる。
「どうしてアタシは子供なんだろう。どうしてアタシは大人になれないんだろう。どうしてアタシは、二年前から立ち止まったままなんだろう……」
「………………」
すっ、と。
蓮華が席を立ち、虐殺のもとへ歩み寄り。
「………………」
なにも言わないまま、虐殺をその胸へ抱き寄せた。
「……! …………、………………」
温かい。
人の体温の温かさなど忘れてしまっていたのに、とても懐かしく、切なく、幸福で。
感情が激流となって、もう、わけがわからない。
「……あ。ああ、うぁ……、ああああ」
虐殺――否、斧崎ありすは、友人の胸で、鬼らしからぬ様子で、人間らしく、泣きじゃくった。
泣きじゃくりながら、思う。
――ああ、彼女こそ、本物の『大人』なのだ。
◆◆◆
「美味しかったですね、また来ましょうね、ありすさん」
「……うん」
二時間ほど経って、やっとふたりは席を立った。二時間ずっと、語らい、笑いあった。
そんな経験がいままで一度もしたことのない虐殺は、なんだか新鮮な気分に浸っている。
ああ、この時間が永遠に続けばいいのに、と。
らしくなく、思ってしまう。
それともこの姿が本当で、殺人鬼としての姿が偽りなのだろうか。
斧崎ありすが本物で、虐殺が偽物なのか。
あの笑顔の殺人鬼だったら『虐殺』こそが本物なのだと力説してくれるだろうが、蓮華は――斧崎ありすの友人は、どちらを本物と言うだろう。
斧崎ありすを受け入れてくれた大人の少女は、虐殺を見てどう思うだろう。
怖がってしまうだろうか。
蔑まれてしまうだろうか。
嫌われてしまうだろうか。
殺さなければ、いけないのだろうか。
「………………」
それは。
何故だかとっても。
「いやだなぁ……」
先を歩く蓮華の、揺れるポニーテイルを眺めながら、呟いた。
「……って、あれ? 蓮華、会計は?」
「え? もう済ませましたよ」
「えっ」
手際がいい。気付かなかった。
「なんで勝手に払っちゃうんだよ。アタシもお金出さないと……っ」
「そういうのはいいです。私が払いたいから払ったんですから」
「でも……っ」
「ではこうしましょう」
乗り出しかけた虐殺の身体を、指先ひとつで制する蓮華。柔らかだが、抗えない強さを含んでいる。
「今度は、ありすさんのおすすめのお店に、私を連れて行ってください。そこで奢ってください。そうですね……甘いケーキが食べたいです」
優しい、透けるような微笑。
謀殺は「清らかな大人などいない」と断言したが、それは嘘なのだと直感した。
だって、彼女はこんなにも清い。
殺したくなくなるほど、清い。
殺人鬼が人を殺したくないだなんて、滑稽話にもならないのに。
「……わかった。約束する」
「はい、指切りしましょう」
差し出される小指に、虐殺も己の小指を絡めた。
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーます」
綺麗な声で歌って、指を切る。
約束は守らなければいけない。
「私、指切りなんて、お兄ちゃん以外としたの、初めてです」
「アタシも、最後に指切りしたのなんて、覚えてないよ」
はしゃいだ、浮かれた足取りで店から出る。外の景色は真っ暗だった。二十一時を過ぎているので当然だが。
肌寒い。虐殺も蓮華もスカートなので寒さがダイレクトに身体を襲う。
今日はもう帰った方がよさそうだ。
お互い同じことを考えたのか、特に言葉は交わさずとも、ふたりは揃って駅の方角へ足を向けた。
「――――――」
けれど、虐殺は、一般人ではなく殺人鬼なのだ。
いい話だけで終わるようなご都合主義の世界に生きていない。
程度の差こそあれ、近しいものは、惹かれやすいのだから。
街灯も人通りも少ない道へ差し掛かったとき、ふたりは気付いた。
悪寒が走った、と言い換えてもいい。
まずいな。
と、虐殺は思った。
気付いたときにはもう遅かったからだ。
はしゃぎすぎて、そちらへの配慮が疎かになってしまったらしい。
――囲まれている。
五――十――十五――いや、もっとだ。
武器らしきものも所持しているらしい。足音が重い。顔は見えない。覆面やマスクをしている者もいるようだ。吐息がくぐもっている。
「ありすさん――」
蓮華が震える声で囁いた。
彼女も気付いたらしい。
「私を置いて、逃げてください」
「なんで」
同じように小声で返事をする。
「彼らの目的は、私のはずです」
「なんで」
若干苛立って、繰り返した。
「わからないじゃないか。アタシが目的かもしれない」
「だって私は――」
「いやだからな」
「え?」
「アタシは蓮華を置いて逃げるなんて、絶対にいやだから」
「絶対?」
正面を向いていて見えない蓮華の顔が、諦めたように笑んだのがわかった。
「ありすさん、この世に絶対なんてありませんよ」
諦観が音になってリズムに乗った声だ。綺麗で、清らかで、麗らかで、聞き心地のいい声だ。大人びて、大人で、子供らしくない声だ。
「だから、ありすさん、今逃げなかったら、私を置いて逃げなかったことを後悔します」
子供に社会のルールを言い聞かせる母親のように、蓮華は語りかける。
あくまで優しく、あくまで清く。
「しない」
対する虐殺は、意地汚く、生き汚く、首を振った。聞き分けの悪い幼児のように、じだんだを踏む園児のように、子供のように、首を振った。
「逃げてください」
「逃げない」
「後悔しますよ」
「しない」
「殺されちゃいますよ」
「殺されない」
「なんでそんなこと言えるんですか」
「それは――」
アタシが殺人鬼だから。
とは、言えなかった。
蓮華には良く見られたいという欲が、邪魔をした。
口ごもった虐殺の様子を感じ取って、蓮華は「ほらね」と笑った。
「絶対なんてないでしょう? 後悔しますよ? 殺されますよ? だから、逃げてください。こんなことをいきなり言うのはおかしい、変だって思われちゃいますけど、私、ありすさんが好きなんです。大好きになっちゃったんです。だから死んでほしくないんです。ごめんなさい。自分勝手でごめんなさい。気持ち悪くてごめんなさい。でも、私、ありすさんに死んでほしくないんです。私が死んでも、ありすさんには生きててほしいんです。わかってください……ごめんなさい」
「なんで、謝るんだよ」
「ごめんなさい」
「謝るなよ」
「ごめんなさい」
「謝るなってば」
「ごめんなさい」
「諦めるなよ」
「ごめんなさい」
「やめろよ」
「ごめんなさい」
「だってアタシたち、まだ会って一日も経ってないじゃないか。なのになんでアタシごときのために命を捨てようとするんだよ」前に進もうとする蓮華の腕を、急いで掴む。「まだ友達になったばっかりじゃないか! アタシはアンタのことをもっと知りたいし、アタシのことを知ってほしい! 今は言えないアタシの秘密をこっそり教えたいし、恋の相談とかしてみたい! だから……っ、諦めるのをやめろよ!」
「……っ、ありすさん……っ」
「ねえ」
と、そんな風に。
虐殺と蓮華の会話に割って入ってきたのは、底冷えするような、女の声だった。
「くだらない茶番はそこまでにして、いい加減誘拐されてくれないかしら、蝶咲蓮華さん?」
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