FILE1 毒殺 3
薄暗い夜道を点々と照らす街灯の道を歩む。
影が右から左へと移動し、また新しい影が同じように移動する。それを繰り返し繰り返し続けていくうちに、毒殺の背で眠っていた惨殺は目を覚ました。
ゆりかごのように心地よい揺れを感じながら、毒殺の隣で姿勢よく歩く抉殺も視認する。
「……毒殺さん」
「ん……なんだ、キク、起きたか」
「はい」
起きた。けれど、まだ眠たい。頭に靄がかかったようにぼんやりとしている。
そんなときは、いつもより正直になってしまうものだ。今の惨殺がそうだった。
「終わったんですか?」
「終わった」
「どうでした?」
「どうって?」
「楽しかったですか?」
「……俺は殺人鬼だからな」
今は見えない毒殺の顔は、きっと溜息をつきながら呆れたような表情をしているのだろう。
「殺人が楽しいとか、そういう感覚は、もうないんだよ」
「そうなんですか?」
「人間には三大欲求ってのがあるだろう」
「はい」
「俺が――俺たちが人を殺すのは、それと一緒なんだよ。眠いから寝る。腹が減ったから食べる。人を殺したいから殺す。そうしなきゃ生きていけない――そういうことだ」
「はい……」
ゆらゆらと揺れる毒殺の背中は思っていたよりもずっと広い。これが大人の男性の普通なのだろうか。……いや、確か毒殺は高身長に分類される人だ。百八十センチだったか。
「毒殺さんは……」
「ん?」
首だけでこちらを向く毒殺。その顔には、ガスマスクが装着されていた。
彼は口周りを隠すと安心するらしい。癖なのだろうか。
「毒殺さんは、どうして殺人鬼になったんですか?」
「………………」
「それは、毒殺さんが、ぼくのことを『キク』って呼ぶのと、関係があるんですか?」
視界の端で、抉殺がイヤホンをするのが見えた。
毒殺もそれを確認したらしく、訥々と語り出す。どこか無気力な、おとぎ話のような調子で。
「……六年前の、冬だった。そうだな、丁度、バレンタインの時期だったか……」
◆◆◆
「あの、先輩、これ……!」
手渡されたチョコレート。
はて、バレンタインは今日じゃなかったはずだが。
「先輩は人気者ですから、その、当日だと渡せないと思って……」
日付は二月十三日。
こんな真冬の、しかも屋外に呼び出されては、告白さえも受ける気になれない。
「渡したかっただけなので、あの、それじゃあ!」
そんな風に、彼女――おそらく後輩――は、いち早く校舎の中へ駆け込んでしまった。
別に自分は人気者でもなんでもなかったと思うが。
そういえば、国立の医大に合格した途端に告白じみたことを頻繁にされるようになった気がする。
それが原因か?
そうでもなければ、こんな、放課後には必ず病院に行くような、付き合いの悪い奇異な人間に告白などしないだろう。
「ああそうだ。病院に行かなきゃ」
呟いて、鞄を取りに教室に向かう。
何故あの女子生徒は自分を屋外などに呼び出したのだろう。人が来ない場所であれば、屋内の空き教室でも良かったのではないか。
「女の考えることはわからん」
同じ医者でも、カウンセリングなどの心の医者には、俺はなれないだろう。
三階の端にある教室。すでに今日の授業はすべて終了しており、これから帰る奴やまだ残って駄弁る奴がいるのだろう。
「よう」
「……おう」
呼びかけられたので、曖昧に返事をする。
クラスメイトの、席が前後だというだけの、特に親しいわけでもない男子だ。
「女子からの呼び出しとか、羨ましい限りじゃん、え?」
「茶化すなよ」
溜息をつく。
どうしてこう、この年頃の人間というのは色恋というものに夢中なのだろう。自分のことだろうが他人のことだろうが、妙なお節介を焼きたがる。馬鹿にしているわけではないのだろうが、囃し立てて、自分が楽しみたいだけなのだろう。
なんというか、そういう自分勝手な人間を見ると――
――殺したく、なってくる。
もちろん本気で相手を亡き者にしようとかそういうのではなくて、思春期とかにありがちな、ありふれた敵意でしかない。
本物の殺人鬼だったら、本当に殺してしまうのだろうか。
「お前、これからカラオケに行かね?」
「カラオケ?」
「そ」
「ごめん、用事がある」
コートを羽織り、マフラーを首に巻く。
「はあ? お前毎日それじゃん。付き合い悪いよ、ほんと」
「……ごめん」
謝るしかできない。別に、俺に非なんて少しもないのに。
市内で……いや、県内で最も大きな総合病院。
すでに顔見知りとなった受付の女性に頭を下げて、彼女の病室へ向かう。
「おや」
エレベーターに乗ろうとすると、降りようと身を乗り出していた男性とぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
「いえ、お気になさらず。こちらこそ申し訳ありません」
柔和な笑みの男性だった。
エレベーターに乗り込み、六階のボタンを押す。
「カラオケか……」
行きたいわけではない。歌える曲もないし。
高校入学当初はそういうものにも参加していたが、途中から面倒くさくなってすべて断っていた。ゲームセンターやファストフード店にはよく行っていたが。
行きたくて行っているわけではなかったけれど。ほぼ毎日、いろんなところへ連れていかれれば、自分の財布や体力だって限界を迎える。正直、辟易していたところだ。
それも去年の夏ごろから行かなくなって、代わりに毎日病院に通っているが。
エレベーターを降りて、薬品のにおいが漂う廊下を歩くうちに、その病室の前に辿りつく。
一応ノックをしてから、がらりとスライド式のドアを開けた。
「あ! お兄ちゃん!」
「よう、キクノ」
薄手のパジャマにカーディガンを羽織っただけの恰好。病院は温かいので、薄着でも平気なのだろう。短い黒髪は艶やかで、病人とは思えない。兄の姿を視認すると、ぼんやりとした夢見心地のような表情が、ぱっと華やぐ。
「今日も来てくれたんだ!」
「毎日来るって言ったろ」
本当に、病人とは、思えない。
けれども、その病魔は確実に、彼女の身体を蝕んでいた。
病魔の名前さえわからない、新しい病気――らしい。
「大学受験真っただ中でも絶対に来るんだもん。ほんと、お兄ちゃんって私のこと好きだよね」
「はいはい、そう思っとけ。あんまり動くと身体に障るぞ」
「だいじょーぶ。このくらい平気よ」
この広い病室には、妹――キクノひとりだけだ。
正体不明の病気ゆえに、隔離されている。
隔離されているはずなのに、俺が面会できるのはおかしいんだけどな。
医者の判断だから信用するけど。
「……あれ」
「ん? どしたの?」
「その花……」
病室の窓際にある机の上には、花瓶が置いてある。それには俺が定期的に花を活けているのだ。そろそろ前の花が萎れてくるころだったので、新しい花を買ってこなければと思っていたところだったが、はて。
「俺以外に、誰か来たのか? 昨日はなかったよな」
両親ではないだろう。
両親は俺が花を活けているのを知っていたから、なにも言わずに花を差し換えるなんてことはないはずだ。
「ああ、学校の先生だよ」
「学校の先生は面会謝絶じゃなかったか?」
「ナースステーションで花とお見舞いだけ渡してくれたの」
「ふうん」
学校の先生が生徒に見舞う花にしては、随分豪華なものだと思う。高そうだ。
それとも今じゃそれくらいが普通なのかな? 生憎、俺は自分の人生十八年の中で、入院はおろか病気というものにかかったことがないので、そういうものはよくわからない。今まで一度も病気を患ったことがないというのは、ちょっとした自慢だったりして。ふふ。
「お兄ちゃん? にやにやしてどうしたの? 気持ち悪いよ?」
「にやにやなんかしてねえよ」
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「お兄ちゃんは、殺人鬼とか、どう思う?」
「いきなりどうした」
殺人鬼?
ああそういえば、都心あたりでそんなような事件が起こったと新聞で読んだような気がする。
いや、それは、殺人鬼ではなく『殺戮家』だったか? 随分しゃれたふたつ名をつけたものだ。
「そう、私も、新聞読んだの。小説とか漫画とか、フィクションの世界だとさ、殺人鬼ってかっこよく書かれたり表現されたり、するじゃない。でも、こうして新聞とかで読むと、やっぱり殺人鬼って悪い人なんだね――」
「そりゃそうだ。殺人は悪いことなんだから、殺人鬼は悪い奴に決まってるだろ。フィクションはフィクション。現実は現実、だろ」
「うん、そうだね」
「なんなんだよ一体……あ、もしかしてキクノ、患ってる? 中二病」
「な――違うよ!」
キクノは現在十六歳。
中二病になるには少々遅い。
どこぞのラノベのヒロインかな?
「ニュースに興味持っただけでどうしてそんなこと言われなきゃいけないの? もう!」
頬を膨らませて腕を組むキクノ。
「ははははは」
「なんで笑うのよ」
「キクノ」
「なに?」
「待てるか?」
「………………」
答えは返ってこない。
当然か。
自分の身体だから自分が一番よくわかってる、なんて言葉は、結局、言い訳でしかない。
自分の身体だろうとわからないことはわからないのだ。
「待てるか?」
俺が医者になるまで待てるか。
俺が医者になるまで――ずっと病気と闘えるか。
「お兄ちゃんは、きっと、すごいお医者さまになれるよ」
ふと、呟くように、キクノが微笑んだ。
「医学界でその名前を知らない人はいなくなるくらい。教科書に載って、百年先までずっと有名になるくらい、すごくて、かっこいいお医者さまに」
「医者はかっこよくなくてもいいだろ」
「きっと、たくさんの人を助けるんだね」
「お前を助けてからな」
俺は言った。
昔から医者を目指していた。
キクノが病気になる前からずっと。
けれど、キクノが病気になってから、その意志はより一層堅くなった。
「俺が、キクノの病気を治してやるから」
「なに言ってるのお兄ちゃん」
どこか儚げに、キクノは微笑した。
「だめよ、私を治すなんて、馬鹿なこと言わないで。学年首位の頭脳が聞いて呆れる」
「………………」
「知っているでしょ? 私の病気は原因も進行具合もわからない、病名さえついていないのよ。お医者さんだってみんな、お手上げじゃない。匙を投げているじゃない」
「……だから、俺が病名も、治療法も見つけるんだ」
俺はきり、と、まじめな顔を作った。
「……わかった。それまで待ってる」
キクノは笑って、呟くように言った。
俺もそれを聞いて満足し、座っていた椅子を片付けた。
「帰るの?」
「うん、来週最後のテストがあるから」
「じゃあ、はいこれ」
「これは?」
手渡されたのは、板チョコだった。
ふむ、今日はよくチョコレートを渡される日だ。
「バレンタイン。いつもは手作りだったけど、今年は作れそうにもないから。売店で売ってるようなつまらないものだけど許してね」
「ありがと、勉強の間に食べる」
チョコを鞄へ入れ、病室から出る。
「お兄ちゃん」
すんでのところで、キクノが呼ぶ。
「なんだ?」
「テスト、頑張ってね」
「誰に言ってんだ」
お前の兄貴はものすごく頭がいいんだぞ。
笑って、ふと。
「そうだ。次、なんの花がいい? その花ほどいいもんじゃないけど」
途端、表情が陰る。
あれ。俺、なにかおかしなこと言ったかな。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
「なんでもないって顔じゃなかったぞ」
「なんでもないったら。そう、花ね。そうだなぁ、梅がいいな」
「梅か。わかった、探しとく」
「絶対よ。絶対持ってきてね」
「わかってるって」
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「……ばいばい」
いきなり妙なことを言う。
わざわざそんなことを言わなくてもいいだろう。
訝しく思いながらも、小さく手を振るキクノに手を振り返した。
「ばいばい」
それが、キクノと交わした最後の言葉だった。
夜の十一時。
勉強のノルマも終わり、そろそろ風呂に入ろうというときだった。
キクノから貰ったチョコレートを半分ほどたいらげ、少しうとうとと居間のソファで舟をこいでいた。
妙に耳障りな、聞き慣れた電話の受信音が居間に響く。
母が「こんな時間になにかしら」とぼやいて受話器を取り、一気に顔面蒼白になった。
「キクノが」
目を見開いて、動揺した様子で、放心したように俺に言った。
「キクノの容態が、急に悪化したって……」
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