オチのない話

一字句

第1話 どうして人は生きるのか?

私は先輩に


「なんで生きてるんだろうね?」


そう言われたことがある。その時私は


「きっと誰しも希望を抱いてるんだと思いますよ」


そう言った。だってそうだろう?起きるとは能動的行為で、死を選ぶのは受動的行為だ。それでも人が生きるというのは、きっと己の人生がきっと報われると信じているから、多くのエネルギーを使って生きようとしているのだろうと考えていた。


 しかし、改めて考えると妙な話だ。希望がなくとも生きている人間が少なからずいる。私がその最たる例だ。私は自身に何の希望も抱いていない。きっと、うだつの上がらない人生を歩むのだと信じて疑わない。


そう考えた時、改めて考える。どうして私は生きるのだろうかと。数刻の悩みの果て、私は一つの結論にたどり着いた。人が生きる理由は”希望”ではなく、他者への”期待”なのだと。人は有意識的にしろ、無意識的にしろ他人に期待しているのだ。


”きっと誰かが何とかしてくれる”


”こんな自分でもきっと手を差し伸べてくれるはずだ”


と。これは反吐が出るほどの甘えだ。だけど、否、だからこそ私は問う、それは”悪”なのかと。


だってそうだろう?それがたとえ他者への共依存だとしても、それでも背筋を伸ばして、まっすぐに立つことは尊いことではないかと。人は言う


「誰かに寄りかかってしか生きられないなんて、ナンセンスだ」


と。確かにナンセンスかもしれない。だれにも頼らず、寄りかからず生きていくのは、確かに立派である。だけど、それはとても物悲しいことなのではないか。一匹狼を気取るのは確かにかっこいいことではある、だけど人の本質は他者への”期待”だとするならば、人は寄りかかっていくべきなのではないかと私は思うのである。


たとえ、それが、その姿が無様だろうがみっともなかろうが、きっと他者へ寄りかかることはきっと、とても勇気がいることで、尊ぶべきことなのではないかと。


だから今現状、他者へ寄りかかることに罪悪感を感じている人は安心してほしい。それはきっと、誇るべきことで、決して負い目に感じることではないのだと。他者へ寄りかかることが出来ない人間は、きっと、他者からも寄り添われることはないのだから。


生まれてからずっと一匹狼を気取っている僕がいうのだ、それは間違いないことだろう。

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