チャプター 4-1 part.3
──立ち止まってなんかいられないっ!!
「やった、でき……た。 やっと、やっと。 よしっ!」
それは、ただパレットに絵の具を出しただけで、特別何かを達成した訳じゃない。でも、それすら怖かった僕からするとアポロ十一号の月面着陸ぐらい大きな一歩だった。
「色、塗るんだ」
ガッツポーズを決め、大袈裟に喜んでいたせいか。少し離れて作業をしていた紫がこちらにやって来ていた。
「あぁ、この絵にはどうしても色をつけたいんだ」
「なら、なんで白?」
「べ、別にいいだろ。 使うん……だし」
ついそっぽを向いてしまう。若干、顔がアツい気もする。
別に、最初に白を出したのに深い意味はない。ただ、なんとなく、なんとなーく、最初に出すのが白だと安心出来たからだ。そう、ただの気まぐれだ。
別に、都ちゃんは関係ない。断言してもいい! ……しないけど。
「ねぇ、色塗るところ見てていい?」
「いや、紫にはやることがあるんじゃ」
「別にいい。 こっちの方がキラキラしてる」
「キラキラって」
「早く塗ろ」
「はぁ、分かったよ」
自分もやる事があって朝早くから来ているはずなのに、例のごとくキラキラしてると言ってほっぽり出すとは。相変わらずよく分からないやつだ。
「…………」
「ねぇ、まだ?」
「こ、心の準備がいるんだよ!」
「もう待てない」
勝手に見たいと言っておきながらなんて厚かましいんだ。あと、隣に座ってるからって耳元で囁くな……お前はれっきとした女なんだからな! 別の意味で緊張するだろ!
「怖いの?」
「っ!」
確信を突いてくる紫のせいで、ビクッと体を震わせてしまう。そりゃそうか、また手が震えてるしな……。
「……あぁ、そうだよ。 もう何年も色を塗れなかったんだ。 そう簡単には出来ない」
いざ目前に迫るとまた尻込みしてしまう。我ながらヘタレで情けない。
「なら、私がなんとかしてあげる」
「あ、おい」
紫は自分の鞄を置いている机まで行き、一枚の絵を取って来て、僕へと手渡す。それは、奇しくも僕の絵と構図がよく似ている『空』の絵だった。
「これで予行練習すれば大丈夫」
「でも、これは」
「いい。 ピンチの時にライバルを助けるのは当たり前。 寧ろ、本望」
「……ありがとな」
これを完成させる為に、朝早くから来ているはずなのに……お前の
「…………」
「ねぇ、真一」
「……分かってる……」
「なら、どうしてダメなの?」
「その……なんだ。 失敗が怖い訳じゃないから、ぶっちゃけさっきと状況があんまり変わってないよな」
僕の絵から紫の絵に変えても、絵に色をつける行為は変わらない訳で。まぁ、少しくらいなら気は楽になるが……控えめに言っても誤差だ。
「…………」
「い、
本日二度目の頰つねり。それは、さっきの何倍も痛かった。本当に、痛かった。
あと、なんでちょっと不機嫌な顔をしてるんだ。
「いきなりなんだよ!」
「別に。 何となく」
今回は、完全に冤罪だ……。
「こうなったら奥の手」
いきなり僕の右手に自分の右手を添える紫。それは、親が子どもにやり方を教えるように、後ろから密着してきた。そして、弾力のある何かが背中に当たる。その感触を少し固いと感じたのは下着のせいだろうか。いや、前に胸の感触には個人差があるってSNSで見たな──じゃなくてっ。
「な、何してるんだよっ!」
「手を添えてる」
「いや、そうじゃなくて……その、当たって……」
「何が?」
「いっ……言わなくても分かるだろっ!」
「んー?」
「お、お前なぁ……無自覚なのか……」
「無自覚……あ」
流石に、気づいてくれたか。なら、このまま離れて問題解決だ。
「胸は当ててるだけだから気にしないで」
当ててる、だけ……か。そうか……世の中には、そんな風に考えるやつもいるのか……。
「はぁ……分かったよ」
どうせ何を言っても前みたいな結果で終わるに決まっているので、僕が折れるしかない。それに……向こうに羞恥心がないのに、僕だけが気にするのは癪だ。
だから、無心になってスルーする。
しかし、それはまだ序の口だった。
「……くっ……」
紫とのグッと距離が近づいたせいで、紫の髪から漂う桃のような甘い香りが僕の鼻腔をくすぐる。その香りのせいで健康番組で紹介された食品の売り上げのごとく心拍数が上昇していく。
「まさか……そんな……」
紫のやつシャンプー変えたのか……っ!?
これは、あくまで推測だが、前はホームセンターに売っててもおかしくないような男性向けのシャンプーを使っていた。なので、爽やかな香りはしても心が躍るような事は決してなかった。僕個人としては折角長くてサラサラの綺麗な髪なのでフルーティーな甘い香りがすれば最高だと思っていた。
だから、それとなく提案した事もある。だが、紫がシャンプーを変える事はなかった。諦めずに何度も言ったが、ワンチャンすらなかった。
しかし、今は変えている! 前とは違い甘くて良い香りを漂わせている! まさに
……感動だ。参観日のお父さんぐらい感動している。出来れば、この感動をカメラに収めたい。
「髪は心を。 人生を豊かにする」
「急に何言ってるの?」
「……すまん、忘れてくれ」
うっかり失言をしてしまって本当にすまないと思っている。
「ところで、なんでこんな事を?」
これが奥の手らしいが、今のところ心拍数の上昇と髪の香りへの感動しかしていない。
「一人でダメなら一緒にやれば出来る」
なるほど、そういう事か。一緒にやる事で僕に勇気を……。
「それ、のりタンがタマごろんに言ったセリフだろ」
「…………。 知ってるんだ」
「最近、見たからな」
紫のやつ、どんだけおすしマンが好きなんだよ。でも、知っている身からすると妙に力強く感じる。それを狙ってやった訳じゃないと思うが、効果的だったよ。肩から余計な力が抜けていくのが分かる。
「…………」
しばしの沈黙の後、
「紫、頼む」
「うん」
震える手を支えてもらい、絵へと筆を近づける。
──ドクン、ドクン。
筆が絵に近づけば近づく程、胸の鼓動が早くなる。そして、呼吸も荒くなり、額から汗が落ちた。
「くっ」
筆先が絵に触れる寸前、手が止まる。
これ以上、手が動かない……やっぱり、僕には……。
その時、紫が添えていた手でギュっと握りしめてくれる。とても暖かい手で。
「いこ。 キラキラが待ってる」
またキラキラって……本当に意味が分からない。なのに、どうしてこんなにも心強いのだろうか。どうして嵐で大荒れの海のようにざわついていた心が凪いでいくのだろうか。
「…………」
今、目に映るのは一枚の色のない絵だけ。まるで心と体を切り離して、後ろから自分自身を見ているみたいによく見える。
僕は、ずっと、ずっと色を塗りたかった。自分の目に映るものをそのまま絵にしたかった。そうやって自分の見つけたものを形にしていくのが好きだった──そうか、紫の言ってる
「どう?」
「なんて言ったらいいんだろな。 今すごくドキドキして、いい気持ちでいっぱいというか……その……
「うん、良かった」
最初の一歩は踏み出せた。あとは、ゴールに向かって真っ直ぐ突き進むだけだ。
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